2022/07/28

●Huluで『Helpless』を観ることが出来たので、『サッドヴァケイション』(青山真治)を改めて観直してみた(U-NEXTで)。

これを観て、ああ、青山真治は亡くなってしまったのだなあと思った。この映画の「続き」は永遠に失われたのだ、と。15年前に、この映画をはじめて観た時の感想を読み返していても思うのだが、その時のぼくは、当然この話の「続き」があるのだと思って、日記を書いている。義理の弟(高良健吾)を殺した浅野忠信が刑務所から出てきた後の話が、五年後か十年後か分からないが、いつか撮られるはずだと。まさか、これで終わりはないだろう、と。

サッドヴァケイション』は、『ユリイカ』のような傑作とは言えないだろうし、『Helpless』のような特別な何かを宿してしまった作品ともいえないだろう。『Helpless』や『ユリイカ』で取りこぼしてしまったものを、律儀に拾い上げて丁寧に構築したという意味で、凡庸な作品と言えるかもしれない。様々な要素があるが、それらが緊密にはつながっていなくて、バラバラなままである感じもする。『ユリイカ』のように、古典的な意味での「良いカット」を積み重ねてつくられるのではなく、どちらかというとジャンクなカット、妙な繋ぎでつくられている。しかし、そのようなものとして十分に興味深いし、面白い(『Helpless』や『ユリイカ』が、狭い関係を描いているのに対し、意図的により広い世界を描こうとしている)。でも(業界の事情などは何も知らないが)青山真治はこの映画をつくった後くらいから、なかなか思うような映画(本人発の企画の映画)がつくれない感じになったように、外からは見える。そして、この続きはないままで終わってしまった。

この映画では、『Helpless』の浅野忠信(健次)と『ユリイカ』の宮崎あおい(こずえ)が出会う。だが、宮崎あおいはこの映画のなかではほとんど「見る人」であり、積極的な行為や意見をみせることはあまりない(宮崎は、高良健吾オダギリジョーとの間に軽い摩擦をみせる以外は、誰に対しても当たり障りのない態度で接するだけだ)。『ユリイカ』の人間関係から「失踪した」というのが最大の行動だろう。浅野と宮崎が、自分たちの母が共に家出している(自分は捨てられた)こと、そしてそのような母への「復讐」について短い会話を交わす場面がある。だが二人の間にそれ以上の何かが起こるわけでもない。宮崎は、浅野による「母への復讐」と、その無残な失敗を見ているが、彼女がそれにかんして何かしらのリアクションをみせるなり、所見を述べるなりすることもない。

浅野の義理の弟(高良健吾)の万引きを見てもいるし、浅野の「母への復讐とその失調」を見てもいる宮崎が、浅野の行為について、そして、自らとその母との関係について、どのように考え、どのように行動するのか。彼女と出所した後の浅野、そして、出所するのはなかなか困難であるだろう兄との関係はどうなっていくのか。あるいは、オダギリジョーとの関係はどうなっていくのか。『ユリイカ』では最後の最後まで言葉を発することなく、『サッドヴァケイション』でようやく語りはじめたとはいえ、「見る」ばかりで多くを語らない宮崎の物語が、ほとんど空白のまま残されてしまっている。

(『ユリイカ』だけだったら、宮崎あおいの存在はそれなりに完結しているように思うが、『サッドヴァケイション』があることで、彼女がこのままで終わるのでは足りないと感じられる。小説家としての青山真治は、宮崎=こずえについて、なにか書いているのだろうか。)

(浅野忠信が、中国からの不法入国者の孤児を預かるところからこの映画がはじまるのは、とても良いことだと改めて思った。ある意味でベタな「日本近代文学」であるこの映画に、中国人マフィアの存在がちらつくのも効いてもいる。)

(『Helpless』ではまだ線の細い感じだった浅野忠信が、ここでは立派に荒ぶる「秋幸」という感じになっている。高良健吾に襲われたくらいでは絶対に負けない感がある。『サッドヴァケイション』は事実上、中上健次の換骨奪胎といっていいと思うが、それにしても、青山真治中上健次を撮れなかったことは残念だ。青山真治浅野忠信なら「秋幸」が可能だったのではないか。)

(高良健吾がバイクで脱出しようとするのを、間宮運送の従業員たちが総がかりで止めるという場面を観て、このような抑圧下にある高良はさぞキツイだろうと思い、彼がこんな風なのも理由がないことではない、と思ってしまう。)

(最後の方で斉藤陽一郎中村嘉葎雄に向かって、「がんばれとか言うの本当は大嫌いだけど、なんかがんばってください」と言うのがとてもよかった。いかにも斉藤陽一郎らしい場違いなずうずうしさも含めて、なんかよかった。浅野忠信は母=石田えりに完敗するが、中村嘉葎雄は妻=石田えりに決して負けてはいないのだ。)

(この映画の唐突でナンセンスなラストシーンについては賛否があるだろうが、今回観てすごく笑えたし、よいラストシーンであるように思えた。)

●無理やりに坂元裕二と比べるならば、『サッドヴァケイション』の間宮運送が、あぶれ者たちを引き受ける中村嘉葎雄の存在がなければ成り立たないのに対して、坂元裕二の『カルテット』や『anone』における、「間違った出会いからはじまる良い関係」を結ぶ者たちには、(居場所=住居を提供する者はいても)その人がいなければ成立しないというリーダーはいない。おそらくこの点について坂元裕二は意識的だと思われる。坂元は、意図的に単一障害点としてのリーダー(中枢)なしに持続する分散的な関係を描こうとしている。『anone』の場合は、瑛太がネガティブなリーダーと言えるかもしれないが、彼は既にできあがっていた、田中裕子、広瀬すず阿部サダヲ小林聡美の四人の関係に後から割って入ってきて利用しているに過ぎない。だから彼がいなくなっても関係は壊れない。『カルテット』の四人の関係は、松田龍平の提供する別荘がなければ成り立たないかもしれないが、松田は、中村のような家父長的なリーダーではない。

リーダーのいる(中枢のある)組織は安定的ではあるだろう。しかしそこには、石田えり的なハッキングに対する脆弱性がある。中村の目的はあぶれ者たちのための居場所を確保することだが、石田はそれを王位継承(血の継承)の問題にすり替える。あぶれ者たちのためにリーダーがいるのだが、あぶれ者たちのリーダーであること(リーダーという位置)が目的となってしまう。あぶれ者たちの場は、場の持続のためのあぶれ者たちへと、主客が逆転する。結果としてはどちらも大して変わらないし、それのどこが悪い、と、石田えりなら言うだろうが。

●ベタ過ぎるくらいにベタですが…。