『サッドヴァケイション』について、もうちょっと

●『サッドヴァケイション』(青山真治)について、もうちょっと。この映画は中心に浅野忠信がいて、浅野忠信石田えり浅野忠信中村嘉葎雄浅野忠信板谷由夏、というような関係がそれぞれ描かれる。石田えり中村嘉葎雄の夫婦の関係はとても微妙なものだと思われるのだが、その関係が直接的に描写されるところはあまりなく(「男の人は好きにしたらええんよ」のシーンくらいだろう)、浅野-石田のシーン、浅野-中村のシーンという形で、浅野忠信という媒介を通してその微妙さが伝わってくるようになっている。(つまり、浅野からみた母、浅野からみた義父、という形になる。)常に中心を貫く浅野忠信に対抗するものがあるとすれば(つまり、浅野忠信を媒介としないで成り立つ関係があるとすれば)、一方で、物語の外枠に存在するような(R2-G2とC3-POみたいな)光石研斉藤陽一郎のコンビがあり、もう一方、物語の内側には、宮崎あおいオダギリジョーとの関係がある。光石-斉藤のコンビはとりあえず置いておいて、この宮崎-オダギリの関係こそが、物語の中心軸から外れる、ほとんど唯一の動きをつくっていると思われる。実際、『ユリイカ』との関係を外して、この映画だけでみるとすれば、宮崎あおいがこの物語に召還される必然性は、オダギリジョーとの関係のためのみであるようにも思えてしまう。(浅野-宮崎という関係は、この映画ではあまり重要ではない。というか、この二人が語り合うシーンはなくてもよいように感じられた。)点景的に描かれるだけのオダギリジョーのキャラクターが、この映画のなかで特別に深い陰影をたたえているように感じられるのは、この人物が浅野忠信による媒介抜きで、直接浅野以外の人物(宮崎あおい)と関係をつくっている(みせている)、ほぼ唯一のキャラクターだからだろう。(つまり、この物語の内部にいながらも、もう一つ別の独立した世界をつくっているようにみえる。)そのことが、例えば、間宮運送に至る以前のオダギリジョーの、もうひとつ別の「過去の物語」があり得るように感じさせるのだろう。(ただ、ラストでオダギリジョー宮崎あおいの膝に顔を埋めるシーンはちょっとやりすぎのようにも思われる。これだと、ここだけ独立し過ぎていて、「来週につづく」というか、「続編に期待」みたいな感じになってしまうのではないか。)
宮崎あおいの視線が、オダギリジョーのキャラを立たせる。この映画のなかの宮崎あおいは、物語内部に自らの確固とした位置をもたない浮遊したキャラクターで、一見、あまり必然性のない存在のようにも思える。しかし、おそらく宮崎あおいは、視線として、この世界を「見る人」として存在していることに意味がある。例えば、間宮家の次男の万引きの場面を、宮崎あおいは見ているのだが、物語的には、この場に宮崎が居合わせる必然性はあまりない(ただ、万引きして捕まった、ということでいいはずだ)。しかし彼女はそこに居合わせる。宮崎あおいの視線は、浅野忠信とはまったく別の見方で、常に間宮運送を「見ている」のだ。おそらく、この映画の楽天的な部分は、宮崎あおいの視線によって支えられている。(つまり、中心にいる浅野忠信に対抗する軸は、実はオダギリジョーではなく、宮崎あおいの方なのだ。)