スピルバーグの『レディ・プレイヤー1』がU-NEXTで配信されていたので観た。まず思ったのは、著作権の調整が大変だっだろうなあということ。映画のなかに、さまざまなポップカルチャーの(ほのめかしではなく)そのまんまの引用が多数ある。ただそれは、この映画をつくったスピルバーグの趣味や思い入れやこだわりを反映している感じではなく、プロとして、「そういう作品」としてつくったという感じが強い。だから、スピルバーグのオタク性は、アイテムの選択や個々の細部にあるというより(アイテムの選択は、著作権をクリアできるかどうかという事実に大きく左右されているだろう)、この作品全体としての調子や、こういう物語を映画にしようとしたという選択の方に現われているように思う。
この映画に出てくるオアシスというヴァーチャルな世界は、その基盤が一人の作者によって製作されたもので、作者の信条や嗜好が強く反映されている。だから、その世界の秘密を探求することは、そのまま、その作者の人となりや、その来歴を探求することになる。この世界の根底には、一人のナードの、一人のオタクの思想や精神があり、その人格が埋め込まれている。主人公は、作者の来歴を調べることで「この世界」の秘密を読み解こうとし、世界の秘密を探求することを通じて、製作者の思想や精神を理解する。そして、それによって、古い世代から新しい世代へと、ある思想や精神の継承が行われる。
この映画でリアルなのは、ヴァーチャルな世界(作品)を通じてこの「継承が起る」ことである。あるいは、ヴァーチャルな世界に埋め込まれている「製作者の(現実上の)後悔」こそがリアルであり、探し出されるべき「バラのつぼみ」であろう。現実的な部分はむしろ縮減されている。資本主義の権化のとしての悪役は、悪役としてあまりに不用意で愚かな小物であるし、主人公の現実上での恋愛は、あまりにすんなり上手くいくのでリアリティがない。というか、恋愛も友情も、バーチャルな世界でこそ生まれ、育まれる。
この映画で重要なのは、リアルとバーチャルの対立(あるいは並立)でもなく、ナードの精神と資本の論理の対立でもなく、虚構を媒介とした、古い世代から新しい世代へのある種の「精神」の継承であると言える。しかしここで、製作者から主人公への継承は、ただ虚構の次元だけを媒介とするのではなく、二人を媒介する第三の人物を必要としていた。製作者と決別してしまったかつての親友という存在が、実は二人を繋げていた。
二者を関係づける第三者、二項を媒介する第三項、製作者と決別してしまったかつての親友の存在こそが、この物語において「現実」の位置にあるように思われる。