●虚構(フィクション)を、リアルなもの(現実的なもの)に対するイマジナリーなもの(想像的なもの)としてだけ考えるのでなくて、アクチュアルなものに対するヴァーチャルなものとしても考えることが出来るのではないか。
ヴァーチャルとは、ヴァーチャルリアリティのような仮想という意味であると同時に、リアル(現実)-ポシブル(可能性)という対に対する、アクチュアル(現勢)-ヴァーチャル(潜勢)という意味でのヴァーチャルでもある。「ヴァーチャル的には、木は、この種の内にある」というような。ここにあるのは「種」であって、木ではないのだが、ここで言われる「木」は想像的なものではなく、ヴァーチャル的には「存在して」もいる。とはいえその「木」の存在は(というより、ヴァーチャル=潜勢態という「領域」そのものは)、現実的には、想像され、仮想されることによって(ヴァーチャル=仮想によって)ひらかれる。だけど、仮想された「木」はたんに想像的なのではなく、実際にある「種」によって存在(現実)と結びつけられている。
現実-可能性という対においては、ある「木」が現実化すると、あり得たかもしれない他の(生育場所や形や寿命などの違う)木の可能性は消えてしまうが、現勢-潜勢という対においては、ある「木」が現勢化することは、潜勢する-あり得る「他の木」を否定しない。
虚構といっても、作品として存在するものは、既に制作されて(アクチュアル化されて)いるのだから、厳密にはヴァーチャルなものとは言えない。だから虚構は、アクチュアル化しつつあるヴァーチャルなものとしての、半-現実(半-潜勢性)だと言うべきなのかもしれない。ある虚構(作品)の存在は、それとは相容れない別の虚構(作品)の存在を(完全には)否定しない。一つの解が、そうではない別の解の存在を否定しない。それは、真偽によって判定されるのではなく蓋然性によって測定される(明らかにダメな解はあっても、唯一のあるべき解があるわけではない)。「二個の者がsame spaceをoccupy」可能。このような(試行の)自由度の高さ(そして、一定の気楽さ)によって生まれる多様性こそが(そして、即物的な多数性=量が)、ある潜在的な厚みと深さを、この現実のなかにもたらす。それは、さしあたっての現実的な成果に結びつかないとしても、潜勢的な豊かさとして世界に蓄積されるのではないか。成果をあげなかった試みが、別のことを試みる別の誰かの導きになるかもしれない。
だとすれば、ヴァーチャル-潜勢態という領域は、虚構の成立によって(この世界のなかに)場を持ち、開かれるとも言い得る。あるいは、虚構は「この世界」におけるヴァーチャル-潜勢的なものの影である、と。
さらに、無数の作品群が仮想-潜勢態(の影)を形作るだけでなく、ある一つの虚構(作品)が、そこにあり得たかもしれない別の無数の作品を潜勢的に含む(ことを感じさせる)という形として成立することが、仮想-潜勢性をかたちづくる。
現実から虚構が生まれるのではなくて(虚構が現実を「表現する」のではなくて)、虚構によって現実が成立するのだ、ということの意味は、ここにあるのではないが、想像-試行すること(ヴァーチャル-仮想としての虚構)によってはじめて、(現実-可能性という対とは異なる)現勢-潜勢という対における潜勢態(ヴァーチャル-潜勢)という領域が世界の内部に開け、それが、現実-可能性における現実化(可能なものが現実化する)とは異なる現実化(潜勢的なものが現勢化する)を可能にする「ある環境」を準備する。文字通り、虚構とは現実のポテンシャルである、と。だから、虚構にかかわる者は、世界の潜勢態の豊かさにむけて奉仕する、と。
●この三か月で「ユリイカ」に九十枚近くテキストを書いていて(角田光代について、山下敦弘について、アニメ版涼宮ハルヒについて)、それらはもちろん、一義的にはそれぞれの対象に向き合うことによって書かれたのだが、そのすべてが、上記の問題の中にあったんじゃないだろうかと、今になって思う。