●『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』というアイルランドのアニメーション映画がフール―にあったので観てみたら、けっこう面白かった。宮崎駿からの影響が強く感じられ(少女が世界を救う話だ)、全体としてエンターテイメントとしてすんなり成り立つように物語が成型されているのだけど、それでも、ナマの神話感みたいなものをけっこう濃厚に残している感じがよかった。宮崎駿とかもそうだと思うけど、日本のアニメだと、神話からインスパイアされていたとしても、ナマの神話感があまり残らない。
神話というのは、具象的なモチーフを使って抽象的な図柄(構造)を描くという感じがある。リアリズムや物語としての説得力よりも抽象的構造の方が強く出てくると、「神話っぽい」感じになる。日本のアニメだと、いわゆるリアリズムというのとは違うとしても、視聴覚的な感覚(快楽)の具体性と、(近代的な感覚をもつ人に対する)物語としての説得力の方が勝ってしまって、神話的な「むき出しの抽象性」みたいな感覚は消えてしまう。
たとえば「ソング・オブ・ザ・シー」では、女の子がコートをまとうだけでアザラシになってしまうという出来事が、過剰な視覚的エフェクトや、メタモルフォーゼの行程の説明的描写などを必要とせずに、言葉で「コートをまとうとアザラシになってしまいました」とだけ語られ、それですんなり納得してしまうみたいな感覚で、あっさりと絵として描写されていて、それで納得してしまうみたいな感じ成立している。
(『もののけ姫』におけるジバシリの描写とはまったく異なる。)
それは、視聴覚的な感覚というよりも、言葉に近い感覚で「絵」が使われているということかもしれない。視聴覚的な像が、シンボル的な機能と自然に結びついているということだろうか。日本のアニメの場合だと、デフォルメによるイメージの単純化は、イメージをシンボル的機能に近づけるというよりも、感覚や感情の効率的な縮減に結びつく感じなのだろう。絵文字が、文字であるよりも絵であるように、イメージの単純化が、シンボル的に機能するのではなく、感覚のパッケージ化のように機能する。と。
だから、日本のアニメの様式で「神話感」を出そうとするなら、一ひねりして、幾原邦彦みたいなやり方をする必要があるのだろう。幾原作品では、言葉が、視聴覚的感覚から切り離されたところで法のように強く作用することで、抽象的構造が強く出てきて、神話っぽい感じが強くなる。