●引用、メモ。『神話論理の思想』(出口顯)より。なんかここ、すごく重要な気がする。
《(…)『食卓作法の起源』では、野生の思考から逃れて異なる途をいく西洋の姿が描かれており、その端緒として古代ローマの「算術の哲学」が取り上げられている。
古代ローマでは、一二日、一二ヵ月、一二年、一二〇年、一二世紀というように一二という数字を反復させてより大きな桁の集合をつくっていった。それらを漸進させることで「与えられる未来の展望に酔っていた」(四九六ページ)。(…)五の二倍としての一〇を繰り返す算術は北アメリカ・インディアンにも見られるものである(三八四ページ)。しかしヨーロッパと北アメリカ・インディアンとでは、同じ論理的アプローチが異なる意味作用をもっていた。》
《インディアンたちにとって同じ群のなかに、桁は同じだか次第に密度の高まる集合を導入することは恐怖に満ちた、とは言わないまでも危惧すべきことであった。そしてそのことに神話的表現を与える場合、それはつねにあわてて引き返すためであった。諸神話で出会う集合の集合は(…)もしより大きな数の段階的解消へと進まなかったならば、人類にとっていかに恐ろしい事態が起こりうるかをしめしているのである。》この部分は『食卓作法の起源』からの引用。
《古代ローマ人が、「前の演算の積に同じ演算を何度も繰り返す」ことに生存のチャンスを賭け、それに「陶酔」していたのに対して、インディアンたちは不吉な脅威を危惧していたのである。数を増大することに酔いしれる思想は、類似のエピソードを短い周期で反復し続ける新聞連載小説にも似た数の複製化と堆積によって、世界を充満させ飽和させることを選択したのであり、真空や空隙を嫌う。対照的に、「あわてて引き返す」思想は、充満を嫌悪するのである。》
●「前の演算の積に同じ演算を繰り返す」ことは、等比級数的に数を増大させるだけでなく、等比級数的に「抽象度」を増大させてゆくことでもある。野生の思考はあくまで、感覚可能な具体物を語彙として抽象的関係を表現する。抽象的諸関係たちを組み合わせて抽象的関係をつくり、関係の関係を用いてさらに関係をつくり、さらに…、ということになると、その思考は感覚可能な世界の圏内にはとどまらない。おそらく、神話的思考にはそこを踏み越えることに対する強い危惧がはたらくのだろう。
このような危惧を外すと、数と抽象度は飛躍的に増大し、思考可能な世界もまた飛躍的に増大する。具象性をもたない、純粋な記号の複雑な操作が可能になる。思考が、人間の身の丈を大きく越え出てゆくことが可能になる。それは、人間の知性の大きな飛躍であると同時に、思考に対して「それ以上はヤバイから先にゆくな(大きくなるな)」とストップをかける基準の消失でもある。思考が思考自身を制御できなくなる。ここに大きな転換点があるのだろう。おそらくこのことと、多くの権力と富とを強大な「一」に向けて集約する「国家」の誕生とは深く関係する(抑制されていた「適度なスケール感」を踏み越えるという意味で)。感覚可能な世界を踏み越えた巨大で抽象的な構築物(例えば「自然科学」?)は、「国家」の誕生とまさに「対称的」なものである、と。
●ああそうか、多文化主義ではない「多自然主義」というのは、こういうところから出てくるのか。
●アルフレッド・ジェルについての論文、その二。久保明数という人による「アルフレッド・ジェル「アート・ネクサス論」の射程」。ジェルの「アート・ネクサス論」によってアクターネットワーク理論と「意味」を扱う人類学を架橋しようというもの。
http://www007.upp.so-net.ne.jp/qvo/ronbun/2008KuboAboutArtAndAgency.pdf