●近所のツタヤの貸し出しが終わった(最後の一週間は返却のみ)。これでぼくの集中的にアニメを観る期間も終わり。「ガンダム」の第一シリーズは最後まで観られた。『機動戦艦ナデシコ』は貸し出し中の巻が多くあって飛びと飛びにしか観られなかった。『ラーゼフォン』は17話まで。「ナデシコ」は改めて真面目に観直さないといけないと思った。これはまさにフォーマリズム的に見られるべき作品だと思った。『ラーゼフォン』のつづきを観るかどうかは微妙。あと『カオスヘッド』も観たけど、これはまったく面白くなかった。
●『ラーゼフォン』の、イメージとしての完成度の高さと、作品としてのどっちつかず感との分離には考えさせられるものがあった。今までのアニメの歴史によって積みかされられてきた様々なイメージが圧縮されて詰め込まれている点では「ナデシコ」も『ラーゼフォン』もかわらないのだけど、イメージの合成・圧縮が、たんにフラットに並んでいるだけなのか、複数のレイヤーの重ね描きがある「奥行」のようなものを作り出しているのかの違いなのだと思う。いや、違うか。『ラーゼフォン』だってそうとう複雑に(立体的に)構成されている。でも、その複雑さがどっちつかず感になってしまっている感じ。徹底してフラットなのは『境界線上のホライゾン』のような作品で、それはそれで別の意味で「凄いこと」になっている。
●『ラーゼフォン』で特徴的なのは「母」の冷たさの感触だ。これは要するに母と戦うという物語なのだが、グレートマザー的な母と男の子が戦うというのであればユング的に分かり易いのだが(母との癒着からの脱出的な感じ)、ここでははじめから母こそが最も遠く、冷たく、不気味な存在となっている(母の血が「青い」し、母の声を声優ではない橋本一子がやっていることの違和感もこの不気味さに関係すると思う)。実際、主人公の「母からの脱出」は物語初期に、年上の女性の誘惑によって簡単に実現されてしまう。物語中盤に母のもとに再び帰るのは、主人公が同類である少女(久遠)と外で出会って、二人に共通のルーツを探るためというニュアンスが強い。だからここで問題となっているのは、母からの脱出という紋切型の成長物語ではなく、母への遠さ、つまり、出自への違和感(自分の自分に対する違和感)とどのように折り合いをつけるのかという感じだろう。
母が希薄で遠い一方、主人公に一番ちかいヒロインが年上となる(一回りくらい上)。ここに仕掛けがあって、主人公のいた世界とその外とでは時間の流れる速さが違っていて、実は二人は同級生ということになっているのだが。かつての同級生(記憶)と、現在の誘惑する年上の女(未来への媒介)が重ね描きされる存在によって、母の冷たさ(自分の自分に対する違和感)を乗り越えら得る地平を手に入れるという、大ざっぱな構図がみえる。(ここから先は最後まで観ていないから当てずっぽうだけど)おそらくそこに、久遠という少女との関係によって「別の出自(本当のわたし)」が見出されるという話になるのだろう。
だとすればこの話は、主人公が、母(過去・偽の出自)-ヒロイン(現在、別の可能性)-久遠(真の出自)という線上を移動することになる。それは、主人公とヒロインとの関係の軸と、主人公と久遠との関係の軸という二つの軸を作品がもつということでもある。主人公とヒロインは、恋人でありパートナーで、主人公と久遠とは同類であり双子であるような関係だろう。前者が、母の冷たさからの離脱と別の可能性(未来)をあらわし、後者が真の出自としての本当のわたしをあらわす。
そしておそらく、この作品からうける「どっちつかず感」は、この二つの軸が上手く絡んでいないという感じからくるのだと思う。問題は、恋人との関係によって開かれる未知の未来なのか、双子が保障してくれる「本当のわたし(本来の正しい位置)」なのかという単調な二者択一ではない。相容れないようにもみえるこの二つの異なる方向への力が、どのように絡み合い、どのように拮抗するのかというところにある。ラストまで観てないので「結論」としてどうなるのかは分からないけど、問題なのはその途中での力の絡まりで、それが上手くいっていないように思えるということ(それは例えば、ヒロインの妹の役割の曖昧さなどに出ていると思う)。
単純に、キャラクターをたくさん出し過ぎて、それをうまくさばけていない感じはする。