●引用、メモ。『野生の思考』より。神話的思考は精神分析にとても近い気がする(似ているというより裏表という感じか)。ただ、精神分析のような、大他者や超越的な「一」への指向が希薄である点が違っている。象徴的な秩序そのものが可換性の高いブリコラージュ的なものであるから(とはいえ、そこには一定の「構造」がはたらいているということで、それが対称性ということになるのだろう)。あるいは、象徴界想像界が分離していない。つまり記号(メタ)と物(オブジェクト)が同じ次元にあって、互いの役割を交換させながら(記号が物として扱われ、物が記号として扱われ…)関係のなかに配置されている。それは、関係(多)が結節点(一)として扱われ、結節点が関係として扱われ…、ということにもなるだろう。それを、超越性の希薄なフォーマリズム、あるいは具体性をもった(感覚的な)抽象主義として考えることは出来ないだろうか。
《経験の総体をあらかじめ整理縮小して、その上で互にはっきり異なるものと考えられるにいたった諸要素をつねに対立させうるということが論理の原則である。この第一の要求にくらべてみると、いかに対立させるかということは、重要ではあるが、あとで考慮される問題である。言いかえれば、一般にトーテム的と呼ばれている命名と分類の体系がもつ操作価値は、その形式性からくるのである。それらの体系はコードであって、その運ぶメッセージは他のコードに変換して表現することもできるし、またそのコードは、異なるコードによって受け取ったメッセージを自らの体系で表現することもできる。古典的民族学者の過ちは、どのような種類の内容もこなしうる方法として観察されなければならないはずのこの形式を実体と見て、ある一定の内容に結びつけようとしたことである。》
《神話の用いる能記としての比喩も器用人の用いる材料もともに、二重の基準によって定義できる要素である。それらは、一つの言説を構成する単語として「すでに使われた」ものである。神話的思考がそれを分解するのは、器用人が古い目覚まし時計を分解してその歯車をとっておくのに似ている。それらの要素は「まだ使える」ものである。もとと同じ用途にも使えるし、また機能を少しかえて別の用途にも使える。》
《(…)神話の用いる比喩も、器用人の材料も、純粋な生成過程から生じたものではない。新しい用途に使おうとして観察すると、それらには厳密さが欠如しているように見えるが、かつてそれらが統一性をもった全体の一部を構成していたときには、その厳密さを保有していたのである。(…)過去の必然的関係は、その後これらの要素を利用するときの制約となり、その各段階においてさまざまな形で反響する。それらのもつ必然性は単純かつ一義的なものではない。しかしながらそれは存在する。要素それぞれにおこりうる諸変換をまとめた群を定義する意味的もしくは美的な不変式として存在する。》
《この論理の働きかたはカレイドスコープ(万華鏡)にやや似ている。カレイドスコープも断片を内蔵し、それを用いて構造的配列を作り上げる。それらの断片は、それ自体偶発的な破壊の過程から生ずるものであるが、形、色合いのはなやかさ、透明性など、あるいくつかの相同性をもっていなければならい。かつて製品として一つの「言説」を述べていたときにくらべると、それはもはや固有の存在性をもたず、名状すべからざる断片になってしまっている。しかしながら、他の観点からすれば、新しい型の存在の形成に有効に参加するに足るだけの存在性はもっているはずである。この新しい存在は、鏡の作用で、像がもの自体と等価値になるような、すなわち、記号がその指示対象と同列に並ぶような配列として成立する。これらの配列は、いろいろな変形の可能性の現実化である。その可能性の数は、非常に多いものであるにしても、やはり無限ではない。なぜならそれは有限個の物体のあいだにおこりうる可能な配置と均衡の関数だからである。さらにとりわけ、これらの配列は、偶然的出来事(見る人によるカレイドスコープの回転)と法則(カレイドスコープの構成を支配する法則---さきほど述べた、諸制約共通の不変要素に対応する)が出会って成立し、了解性の暫定モデルとでも言うべきものを映し出すのである。》
●偶発的出来事(例えば、トーテム体系を構成する特定のクランが人口変動により消滅してしまった場合)によって起こる象徴的秩序の崩壊・変動は以下のように表現される。ただここで、「まったく理論上の観念だ」としながら、《諸体系の集り全体が正確に調整されていた初期のある瞬間》が前提とされているところがちょっと気になる。
《人口構成上の基礎が崩壊したとしても、その激動が直ちにすべての面にひびくわけではない。神話や儀礼もかわるだろう。しかしそれにはいくらか時間がかかる。残留磁気があって、しばらくのあいだ、はじめの方向性の全部もしくは一部を保持しているかのようである。こうして残る当初の方向性は、神話や儀礼を通じて、新しい構造の立てかたを、前の構造の大筋の中に保つように作用する。諸体系の集り全体が正確に調整されていた初期のある瞬間(まったく理論上の観念だが)を想定すれば、この全体は、その構成部分の一つにまず働きかけてくるあらゆる変化に対して、まるでフィードバック機構を備えた機械のように反応するだろう。それは、もともとの調和によって制御されたサーボ機構であって、変調のおこった機関を平衡回復の方向に導く。新しい平衡は、最悪の場合でも、もとの状態と外からもち込まれた混乱との妥協点となるだろう。》