●例えば光速の二分の一の速度で進む二つの同じ型の宇宙船A、Bが反対方向へ進んですれ違う時、Aから見ると宇宙船Bの長さは五分の三に縮まっているし、時間の流れの速さもAの五分の三と遅くなっているように見える。それはBからAを見ても同じで、Bから見るとAの方が縮んで遅くなる。特殊相対性理論によると宇宙のすべてを貫く共通の基準としての絶対的な時間や空間はないことになる。これは、AとBがどちらも間違っていて(主観、あるいは近似値であって)それらと独立した第三項(三人称)としての「正しい時空」が他にあるのではなく、Aの時空もBの時空もそれぞれ観測者の位置においては正しいということで、自らの位置において正しいという以外の「正しさ」はないということになる。
だが、AとBとでは基準そのものが違っているのに、どちらも同等に「正しい」といえるのはなぜなのか。それは、(第三者のメタ視点があるからではなく)観測者Aから観測者Bを、一定の変換法則に基づいた演算過程によって導き出すことが可能であり(変換可能であり)、観測者Bから観測者Aへも変換可能であるからだ(つまり観測者AとBとが交換可能であるからだ)。AとBとはそもそも異なる座標の上にいるので、その内実を(三次元+時間という時空内――つまり世界内――では)直接的に結びつけたり、比較したりすることはできない。しかし、ある抽象的(非感覚的)手続きによって、一方から他方を導く(一方から他方へと変換する)ことができる。客観性ということがいえるとしたら、それはこのような抽象的な手続きによる相互変換によってだけ保証されることになる。つまり「リアル(実在)」は感覚可能な三次元+時間という世界の内部にはなくて、その外にある非感覚的な関数と演算課程によってのみ保証されるものになる、ということだろう。リアルとは抽象であり計算である、ということになる。
●ただ、世界の実在が(抽象的な操作による)交換可能性によって保証されるというのは相対論によって導かれる考えだとして、しかし量子論になると不確定性原理というのが出てくるので、対称的な交換可能性が実在を保証するという話が怪しくなってややこしくなる。運動量を確定するためには位置が限りなく不確定になり、位置を確定するためには運動量が限りなく不確定になる。こうなってくると、適当な変換課程を経ることで相互交換(変換)が可能だとは必ずしも言えないという感じになってくる。