●引用、メモ。『来るべき内部観測』(松野孝一郎)「量子論からの決定性」より。
《「現象は確率的である」という命題を是認し、主語の「現象」、述語の「確率的である」のいずれにも量化を認めるなら、その命題は二階述語論理に従うことになる。しかし、このままでは当の命題に具体的な内容をともなった決定性を課すことは覚束ない。この命題に決定性をもたせるには、それを可能とする新たな修飾子の介入が不可欠である。それが、主観的であるとする観測者の参入である。》
《一つのまとまりある量子現象の観測に、多数の離れ離れに位置している物理学者がそれぞれ独立に参加し、各々からの報告を事後に一つところにまとめて、その全体を一望のもとに眺めわたしてみると、ある特定の二つの間に完全な同時刻相関があることが判明した。この同時刻相関を担うものが、量子非局在性と称されてきた。しかし、何事も光速を超える速度で伝わることはない、という制約に留意するなら、離れ離れになっている現象の同時相関が成り立つということは、実験手順や報告に誤りがないかぎり、何としても理解しがたい。》
《実験に参加した物理学者からの報告は、対象が量子現象であるため、当然のことながら確率的となる。しかも、確率を付与するのは個々の物理学者である。そのため、個々の報告では、それを草した物理学者によって算定された確率が併せて参照されている。ここで、多数の報告書を一つところにまとめ、かつ、その全体をまとまりのあるものとして一望できるのは、確率を客観対象とみなせるときにかぎられる。》
《しかし、ともに参照できる客観化された頻度分布をあらかじめ用意することと、客観化される頻度分布が事実として確認されることは、異質な事柄である。互いに協議することなく、それぞれの物理学者がいかにして共通の頻度分布を手にするに至るのかは不明である。その共通の頻度分布が保証されていないかぎり、客観的確率を想定した上で量子非局在性を導いたとしても、それは砂上の楼閣である。》
《物理学者の間で共通の確率頻度分布を想定するのがいかに困難であるのかを示す、誇張されてはいるが教訓的な事例が、ユージン・ウィグナー(1902-95年)と彼の友人が関わった量子の実験である。友人は放射性原子の崩壊を直接に観測する。ウィグナーは崩壊実験の観測結果をその友人から受け取る。友人は放射性原子の崩壊を観測対象としているのに対して、ウィグナーは友人と放射性原子との量子絡みを観測対象とする。そのため、友人が付与する確率は原子の量子状態に関するものだが、ウィグナーが付与する確率は原子と友人が絡んだ量子状態に関するものである。同じ「確率」という言葉を使いながら、確率をあてがう対象が両者の間で異なっている。》
《この違いが理解可能になるのは、ウィグナーにとっての観測が終了してから、すなわち友人の報告を受けてからである。その報告以前では、ウィグナーも彼の友人もコペンハーゲン解釈に従い、同じ「確率」という言葉を使いながら、対象となる量子状態が何と絡んでいるのか、あるいは絡んでいないのかを判定する術がない。》
《量子対象とその観測装置を特徴づけるのは、両者が一体となることで一つの量子系に統合される、という量子絡みにある。》
《(「シュレーディンガーの猫」において)量子絡みを維持しているのは、生きている猫と崩壊以前の放射性原子か、死んでいる猫と崩壊後の放射性原子の組である。ここでは、猫がその生死を賭けて観測装置の役を担うことになる。(…)ガイガー計数管ではなく、猫と称する観測装置を用いることで、放射性原子の崩壊を観測することができる。その確率とは、客観化されることを前提とした、物理学者にとっての主観的確率である。》
《猫が観測装置として有効なのは、一回かぎりである。一度死んだ猫を生き返らせ、再び箱の中に閉じこめる、などということはできない。主観の代行としての観測装置に求められるのは、観測対象と協働して両者間に張られることが可能となる量子絡みの実現である。その実現を担うのが、観測を持続して行うことができる行為体にとっての、単発的ではない、持続する同一性である。一人称行為体の持続がそれである。》
《持続する観測体が一人称行為体であるのは、観測体を持続させる条件を探索し、装着するのが当の観測体に帰せられるときである。持続の条件を探索・装着できる一人称行為体は、持続することによって、さらなる持続の実践を可能にする。》
《古典論の枠内にあっては、対象を客観化できる主観は、客観化された対象からの主観の再構成を断念し、かつ、その断念という主客分離を甘受してきた。しかし、この断念は量子論には通用しない。量子論が観測という操作・過程を容認するかぎり、観測装置と称される一人称行為体の参入が避けられないからである。観測装置の参入がなければ、量子論は経験との接点を失い、砂上の楼閣と化す。》
《観測装置が観測対象と対になって現れ、その対が一体になって観測装置によって写しとられる対象の属性を確定する。》
《(…)観測装置と観測対象という二分法を採用したとき、観測対象がいかなるものであるかを事前に決定することはできない。確定されるのは、あくまでも観測の事後である。》