●『福岡伸一、西田哲学を読む』では、エントロピーの増大という物理法則に対して、生命が「先回りして」分解を行い、それによって「時間を稼ぐ」(未来から過去への流れを可能にする)ことによって秩序の維持(先回りして壊すことで自らを更新する)を可能にし、そこで起きる循環によって「時間」が発生すると書かれている。これと少し似ていることがら(時間的に逆向きの規定)が、『来るべき内部観測』(松野孝一郎)にも書かれている。
ただし、『福岡…』で福岡や池田によって語られる「西田哲学」において、包み・包まれ、作り・作られる、あるいは年輪と環境、多と一といった逆限定や矛盾的自己同一的な関係にあるものは、双方向的であると共に、対称的である(互いに対して互いが「隠れる」)というイメージで語られているように読める。しかし、内部観測では(たとえば一昨日の日記に書いた「原初的サディズム」と「原初的マゾヒズム」のように)、逆限定的なものの関係は、相互作用的(というより、共働的)ではあるが、双対的ではなく、非対称的であり、レイヤーが異なっていて重ならない、ということになっている。つまり、内部観測ではどうしてもここに一つ「捻れ」が加わる。この違いは「観測」(パースでいえば「解釈項」)ということを必須の問題とするかしないかの違いから現れているように思われる。
●内部観測的に何かを対象として観測、記述する時、外側から(三人称的に)、その「何か」の同一性(恒存性)を同定し、その同一性を前提とする必要がある。しかし、その「何か」の同一性は、それが「同一物として一定期間持続した」という観測の結果をもって事後的に確認されるしかない。発見された「それ」が一瞬で消えてしまい、二度とあらわれなければ対象とはならない。いわば、持続しつづけている、を、持続したという完了形へと抽象化することで、対象とする。
《内部観測が関わり合うのは、時間からの持続ではなく、それをひっくり返した、持続からの時間である。内部観測は一人称行為体に固有な持続する今の更新の上に立つ。その持続する今の更新を三人称で参照するという抽象を課すことによって初めて、そこから時間が現れてくるという見通しが立つ。》
《物理学者にとっての対象世界は、懐疑主義者(ここでは独我論者)の場合と同じく、意識をともなわない恒存する対象から成り立つ。懐疑主義者は恒存対象の確認を自分一人にとっての観念世界のうちで行うが、物理学者は恒存対象の確認を経験世界のうちで可能となる経験を介して行う。この違いにもかかわらず、両者はそれぞれの世界において恒存する対象が可能であることを前もって是認する点で共通している。》
《内部観測は、関心を寄せる対象が恒存することを事前に要請まではしていない。(…)要請するのは、あくまでも事後において判明する持続にとどめおかれる。内部観測を根底で支えるのが、この持続である。内部観測の有り様は、事後に判明する事態にのみ限定する、という抽象を受け入れることによって三人称化される。それによって、抽象化された内部観測は、そこで許容される三人称記述を介して観念世界に接続される。》
●そしてその「持続」を観測する者もまた、一人称的な持続として観測という行為を行うしかない。しかしここで、観測する(経験する)一人称体であるわれわれは、その観測対象を対象化=三人称化するという抽象を避けられない。
《地球上のバイオマスの大部分を占める原核生物であるバクテリアは、まぎれもなく一人称行為体であり、われわれによるその三人称記述にいっさい頓着することなく、これまでも存続・繁栄してきた。経験は、三人称を介することなく自立できる一人称行為体の事例を提供する。にもかかわらず、その現象を経験事実として注目するかぎり、それを対象化する三人称の記述がわれわれには避けられない。》
《内部観測が特異なのは、それが一人称と三人称の間を仲立ちするところにおいてである。そのため、内部観測は三人称で参照される表象やシンボルではなく、あくまでも一方で一人称に、他方で三人称に接する指標であるにとどまる。その仲立ちを実践する行為体が内部観測体である。物体としての内部観測体は、抽象を介して三人称で参照される対象と化すことを可能にしながら、内部観測を実践することにおいては、あくまで一人称行為体でしかない。(…)三人称で参照されるかぎりでの、抽象を受けてしまった内部観測体は、まぎれもなく物体として対象化された、ある構造をともなう。その三人称に位置づけられる構造の成り立ちが、外部観測者のなじみとする表象や記述のカテゴリーとしてではなく、一人称に基づく行為に由来する、というねじれを避けがたくする。》
●内部観測とは、常に進行してやむことのない過程にある一人称的な持続を、無理矢理に完了形へと抽象化し対象化して、三人称化するという形で、一種の「歪曲」を行う時に、その両者を仲立ちするものである。そしてその「歪曲」はわれわれ(の認識)にとって不可避である。
《観察命題は、すでに完了した対象を参照する。それに対して、経験そのものは絶えず進行しつつあって、完了とは無縁である。そのため、内部観測を完了形に凍結し、それを現在形で参照するのは、やむをえない一つの歪曲である。》
●ここで、松野は、物理学における理論家と実験家(経験科学者)との対比を例に挙げている。ここで実験家(経験科学者)こそが、一人称と三人称の橋渡しを行う者として描かれる。
《内部観測を外部観測に橋渡しする経験科学者の特異さは、前もって名づけることができない対象を経験の現場で「これ」や「それ」という指示代名詞で指示できる、と考えるところにある。指示代名詞の多用を自粛し、名づけられた対象や概念のみの操作に専念する理論家には及びえなかった内部観測を、経験科学者は手中に入れる。》
《その指示対象の持続が判明するなら、爾後にそれに名前をつけて参照することを可能にする。名づけられた対象は、それ以後、それ自体で自立することができるようになって、外部化される。その外部化された対象は、外部観測の対象になることができる。内部観測に由来する観察命題が持続するときにかぎって、その観察命題は外部観測の対象ともなる。》
《経験科学者が捕捉するのは、経験する以前に何を経験するのかを特定できない、という否定性をともなう内部観測のうちにあっても、暫時、持続可能となる肯定性である。それが経験を成り立たせる内部観測に由来する観察命題となる。》
《論理学における公理・定理が理論命題として正当であるかぎり、時間を超越する仕方での定立であること、そして、いついかなるときでも成立することが要請される。その要請を内部観測に由来する観察命題に適用することはできない。観測命題は定立の体を装っていながら、その実、正当な定立になりえていない。》
●内部観測を基礎とする観察命題は、「歪曲された」一人称としての(いわば偽の)三人称である。しかしそれは、一人称的行為体としてのわれわれに必須のものとして要請される。おそらくこの、完了しない持続としての一人称と、それをいつでも完了として扱える、超時間的な三人称現在(物理的な理論)とを接続させるという時に生じる「歪み」のなかに、「時間」が生じると考えられるのではないか。
(これは、世界視線と地べたからの視線とが交錯するところに、都市の「像」が成立すると考える吉本の「ハイ・イメージ論」を連想させもする。)