2019-06-22

RYOZAN PARK巣鴨で、保坂和志小説的思考塾vol.4。今回は人称の問題がテーマ。

●「小説は小説の外に真偽の根拠はない」と保坂さんは言う。だがこれは、「テキストは閉じられている」という意味ではないだろう。ここで言われるのは出来事の「真偽」のレベルの問題で、たとえば小説に書かれた出来事の「真実らしさ(リアリティ)」の基準は、小説の外にある現実的な出来事を判断する真実らしさの基準には依っていない(それによっては測れない)、ということだろう。その小説で起こる出来事のリアリティは、その小説自身によって支えられる、と。

(あるいは、「神の子が死んだということはありえないがゆえに事実であり、復活したということは信じられないことであるがゆえに確実である」というような、---小説という大枠がなくても---文単位でそれ自身で成り立つ逆説的なものの説得力というのもある。)

しかしそれは、小説(あるいは言語)がそれ自身として自律しているということではない。まず、言語の有り様は身体に起源をもつ。

たとえば、内村航平が、横たわった状態で自分の競技をイメージする時に脳の状態を調べると、脳の実際に筋肉を動かしている部位が活性化しているというのだが、別の選手で調べてみると、その選手は脳の視覚を司る部位が強く活性化していたという(Nスぺ」より)。つまり、同じ体操選手でも、自分のやっている動きをどう捉え、どのように組織しているか、そのやり方が異なっている。

保坂さんはここで、内村航平のような身体-運動の把握が一人称的で、別の選手の視覚的な身体-運動の把握が三人称的なのではないかと言っている。つまり、どのような人称によって書く(書かれる)のかということは、それを書き、読む人の個々の身体の固有性が強く作用することで、たんに形式的な操作によって交換可能なものではない、と。だからそれは小説内部の問題だけでは決まらない。つまりここで言われている「人称」は必ずしも文の形式のことではないはず。

たとえば、「私が犬とじゃれあっている」という一人称で書かれた文があったとする。この文を、まさに「私」の感覚を基点にして、犬の体温や毛並みの触覚的な感じ、息のにおいや舌の湿ったペタッとした感触として受け取ること(一人称的)も可能であり、あるいは、犬とじゃれ合っている私を、その外から私が見ているような、話者-わたしと描写対象-わたしとが分離した文(三人称的)として受け取ることも可能である。そして、そのどちらの感触が強く惹起されるかは、その文を含む小説の他の部分のありようとその文との関係や、それを読んでいる人のもつ身体的な特異性によるだろう。

●だが、言語が身体に起源をもつというだけでなく、身体の「構え」が、言語のありようによって決まってくるということもある。ある具体的な形をもつ文を書いてしまうことで(あるいは「読む」ことで)、その文のもつ形に身体の「構え」が自動的に導かれ、あるいは拘束される。ある一文を書いた(読んだ)ことで、「構え」が開かれたり、変化したりすることもあるし、ある一文を書いた(読んだ)ことで「構え」が決まったり、固着してしまったりすることもあるだろう。

一人称、あるいは三人称という形式は、そのような意味で書く(読む)人の「構え」を導き、ある一定の振り幅のなかに安定させ、「書くこと(読むこと)」を持続可能にする大きな枠として作用するのではないか。

●保坂さんはこのトークを、「移人称」は技術の問題ではない、と言うところからはじめていた。それにはまず、人称の問題が、言語の形式や技術の問題である前に、身体的な「構え」に起因するものであるということを示すものだと思う。しかし同時に、既に形式や制度として存在する「人称」は、そのような「構え」を導き、発生させ、安定させ、抑圧しもする、という効果をもつ。

だから問題は、たとえば「移人称」のような形式の揺らぎは、形式的に高度な操作(技術)なのではなく、言語の側からもう一度、固着化した身体的な「構え」を動かし、変化させていくための(フィードバック的な)アプローチの一つであるということができる。

そしてもう一方で、身体の「構え」の変化が、そのような形式的な「破れ」を要請したのだと考えることもできる。つまり、そのような形式(形式の破れ)が、「書く人」の意図とは別に、自然に(というか、自ずと)出てきているということでもあるはず。