●お知らせ。4月25日に吉祥寺の「百年」という古本屋さんで、映画作家、只石博紀さんの『季節の記憶(仮)』夏篇と、写真家、トヨダヒトシさんの『An Elephant's Tail--ゾウノシッポ』が上映されるイベントがあって、そこで只石さん、トヨダさんとトークをします。
http://www.100hyakunen.com/news/info/201503211580
トヨダさんの作品は拝見したことがないのですが(なので、このお話を引き受けてもよいものなのか少し迷いましたが)、『季節の記憶(仮)』(特に「夏篇」)は、本当にびっくりするような奇跡的な作品で、しかしそうそう頻繁に上映の機会があるというわけでもないと思われるので、この機会に観ることを強くお勧めします。
以下のリンクは、この日記に書いた『季節の記憶(仮)』の感想。
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20140607
●18日にあった『電車道』についての保坂和志磯崎憲一郎対談で、磯崎さんの小説では「図と地」における「地」がなくて「図」だけが連なっていて(例えば風景描写でも、ある一部分を描写して風景の全体を暗示させているかのように見えるけど、実は書いてあるところだけが「ある」だけで、その背景となる空間の広がりや時間の整合性などははじめから考慮されていない)、その「地」という意味を、空間や時間の連続性・整合性だけでなく、論理的、因果的な整合性にまで広げても同じで、「図」に対して当然その背後にあると想定されてしまうそのような「地」に対して気が使われていないというようなことを、保坂さんが言っていた。「地」に対する配慮(遠慮)がないことが、磯崎さんの小説の独自の運動性を可能にしている、と。
「地」というのは別の言い方をすれば文脈でもあり、「図」を浮き上がらせている(と、自動的に思いこんでしまっている)背景にある現実的な諸関係だとも言える。そそのような背景に対する配慮のなさがあるから、史実を丹念に調べてかなり正確に書いているにもかかわらず(史実が「地」として作用しないので)、すべてが嘘のように感じられる、と。すべてが嘘のように感じられるということは、フィクションが「現実(と、我々が無自覚に思いこんでいる確からしさやもっともらしさ)」に依存していない強さをもつということでもある、と。
それはまったくその通りだと思うのだけど、そのようなものとしてある磯崎さんの小説に、決して「前衛」的な方向へ向かわない、ある種の分かりやすさや通俗性(磯崎さん自身は、今回はかなり「かっちりした」小説を書いたつもりだ、と言っていた)が常にあるのは何故なのかとも思う。磯崎さん本人は、それを、エモーションとか身体性とか手癖とかフレーズとかいう言い方で説明していたが、それだけでは納得できない感じがある。
そこで思い出したのがチョムスキーで、チョムスキーは、言語には意味とは別に文法構造というのがあるというようなことを言う。例えば、「色のない緑の概念が猛然と眠る」というような文を提示して、この文は「意味」としては通っていない(意味が分からない)が「文法」としては正しいことがすぐ(感覚的、直感的に)分かるのだ、とする(「猛然と色のない眠る概念が緑の」だと、文ではなく語の羅列でしかないと、すぐ分かる)。そして、人間が言葉を喋れるのは、脳に生得的に文法構造がビルドインされているからで、そうではないチンパンジーに言葉を教えようとしても、単語の羅列は可能でも文が作れないのだとする。
(幼い子供が、文法を体系的に学ぶことなく、まわりの大人たちが発する不十分で数少ない発話サンプルから、いともたやすく、ほぼ完璧に――意識的には説明できない複雑な助詞の使い方なども含め――言語を「体得」できるのは、既に頭の中に文法構造があって、それを具体的、個別的な母語とすりあわせているからだ、と。)
(語彙、意味、論理のようなものは、大人になってから学ばなければならないが、文法は子供の時に自然に身につく。逆に、外国語を学ぶ時のように、それを大人になってから意識的に身につけるはとても困難になる、と。)
磯崎さんの小説が、空間的、時間的、論理的、人称的、因果的なレベル(「意味」のレベル)で「地」を必要とせず、にもかかわらず、そこに明らかに磯崎的なトーンが成立していて、明快さや通俗性さえもつことが可能であるのは、その背後に文法構造のような「地」が存在しているからなのではないだろうか、と思ったのだった。チョムスキーは、文法構造の根拠を脳に求める(言語を生物学的に考える)。つまりそれは抽象的なものではなく、身体的なものだということだろう。自然言語は、抽象的な人工(形式)言語――プログラム言語のような――とは異なり、論理ではなく身体(脳)に根拠をもつ、と。(意味ではなく)「文法」には体が反応する。
磯崎さんには、そのような身体的な文法構造のようなもの(あるいは、その調性を聴き取る自分の耳)に対する信頼感のようなものが強くあり、だからこそ、空間、時間、論理、人称、因果というレベルでの整合性(地)を超える(勇気と確信をもってそれを踏みにじる)ことができ、そして、それを踏み越えてもなお、ある単純さや朗らかさのような安定したトーンを維持できるのではないだろうか、と思ったのだった。
(追記・『電車道』は400枚を超える長編だが固有名がまったく出てこなくて、しかしそれでもおそらく読者は人物を取り違えたり混乱したりはしないように書かれている。この点について磯崎さんは「途中で苦しくなるかと思ったけど、けっこう行けてしまうものだと思った」と言っていたけど、このようなある種の超絶技巧が、特に超絶には見えない形ですんなりと「行けてしまう」のは、磯崎さんのなかで文法構造が的確に作動しているからなのではないか。)
エモーション、手癖、身体性という感覚は、背後にある(磯崎的な)身体的文法構造という「地」から出てくるもので、そこに、磯崎さんがフレーズと呼ぶいくつかの「認識の形」のバリエーションが、展開し、重なり合い、変形してゆくというプロセスによって、磯崎さんの小説は書かれるのではないだろうか、と考えた。
(保坂さんや、あるいは山下澄人さんとかには、身体的なレベルでわれわれを規定する文法構造から逃れたい――というか、その底を抜きたい――という指向性があるように感じられるけど、磯崎さんにはその感じはなくて、むしろそれへの信頼によって時間や因果から自由になっているように感じる。)