ドストエフスキー(「大審問官」)を読み、塩谷賢を読んでいた。以下のメモ、引用は、2009年10月12日に法政大学で塩谷賢によって行われた「科学哲学?」の講義録から。
http://www47.atwiki.jp/shiotani/pages/35.html
システム論、情報と忘れること、忘れることによる結合、自分自身は変わらないで外から「見る」ことと自分自身を変化させつつ「行為」すること、行為とインタラクション、個別的なインタラクションはコミュニケーションの「内容」にはならないこと(「内容が伝わる」というのではなくインタラクションとしてのコミュニケーションを考える)、複数のシステムの間の複数のインタラクション、行為=コミュニケーションの単位としての「形成」、しかし、形成を単位とするシステムにおいては構成要素であるはずの「単位」が変化してしまうこと……。
《何かを一生懸命やっているときに、一生懸命やっている自分を外から見ることを一瞬忘れることがあるわけですよね。》
《与えられた情報を持っているということは、私たちを縛るんですよ。すでに与えられているある情報と矛盾するような情報を持ってはいけないという縛りが。つまり、ある情報を忘れるということはその情報から自由になるということでもあるんです。その制約によって分裂していたものが、一緒になることができる。そういう側面が忘れるということには、すごくあるんです。》
《すべての情報を知らないからこそ、神様の目から見れば、違っているように見えるものを一緒にすることができるわけです。そして神様の目で見ていることが本当だと思っているからこそ、そこから外れるものは幻想だ、嘘だ、影だという言葉が出てくるというわけです。もし神様がいなかったら、それらは一体どうしてそれらが間違いであるといえるのか? そして神様がいるという保証はどこにあるのか? 完全な情報があるという保証はどこにあるのか? すべての情報を知るということを理想として考えていいかもしれない。けれどその理想とは一体何か。あなたが外にいてそれを書きたい、それを見たい、それを知りたい。しかもあなたは自分自身が変わらないで、相手を作ることができる。あなたはあらかじめすべてを持っている。――そういう理想ですよね。》
《情報という概念に依拠すると言った時に、その状態を幾つも理解する方法があるわけですよ。とりあえず一番ベーシックの方法は「実在」に対応させるわけですね。これがドイツ観念論とシステム論をつなぐものでもあるわけです。ある意味では質量といってもいい。「思惟」に対応するものとして、情報を考えるわけです。情報が実在に覆いかぶさっていると。そして実在の世界というものはよくわからない。そしてここのところを「物自身(das Ding)」と言い、ここのところを「現象(phenomenon)」「表象(Vorstellung)」と言うのがカントであるわけです。カントは言いました。「物自身はわからない。私たちは、現象や表象のことしかわからない」と。でもカントはこうも言っている。「これは認識のレベルでの話である」。つまり「見る」のレベルの話である。そしてカントは、これに対してもう一段上のレベルを言っている。これが、カントの場合も、「行為」だったんですよ。》
《(…)行為というものは世界に結果を残すということだけではない。行為の中で、私も変わるんです。そのなかで、インタラクションというものをどう考えるかをもまた問題になってくるわけです。つまりあるものとあるものがぶつかったときにそれを僕らは見ることができる。でも問題なのは、ぶつかったものにおけるインタラクションなんだよね。それが、フィヒテが「事行」と言ったことです。そういうレベルでものを作っていきましょうと。》
《けれどそういうレベルを私たちはよくわからないわけですよ。行為をしているということは非常に個別的なことですから。そして、個別的なことに関して、私たちはコミュニケーションすることができません。正確に言えば、個別的な事柄は、コミュニケーションの内容になりません。今コミュニケーションが成立しているということは、僕と君たちの間で何かが起こっているわけだよね。でもそうした時はコミュニケーションの内容とか、それが反復されたり、継続されたりすることに関して、考えることは難しくなってしまう。物理還元主義においてはそれがうまくできてしまうわけですよ。物理学においては物が移動するから。物が移動して配置の問題として考えることができるようになるから。ものを移送するという運動のイメージが非常に有効なんですよ。だからぼくらがコミュニケーションをするときも、内容を伝えるというイメージが非常に整理するのに有効なんですよ。その内容というものは、本に書かれたり、録音されたり、噂話として、だんだんと伝わっていく。そのように考えることが、先程から行っているシステムという一つのまとまりを作り出すかのようにイメージするのが私たちにとっては非常にわかりやすいわけですよ。でも本当にそうなのでしょうか?》
《例えばここで僕が、「idea」と書く。ここにあるのは、 i,d,e,aという四つのもの=文字だよね。これが、順番が入れ替わりながら、移動した時に意味をなすかい? なさないよね。だからもの=内容が伝わっていくと言ったときに、単純にものの単位がはっきりしているという条件がなければよくわからないわけですよ。
じゃあ、ものの単位、形というものは一体何なの? といった時にまた問題となってしまう。そのときに一番ベーシックな原型として、何か生み出すという概念が、実は形成と言っていることの話なんです。》
《(…) 今言ったような形を形成するという行為、世界とのインタラクション――この「世界」という言葉もいい加減だよね。完全な情報がないというのに何が世界なんだという。だからインタラクションだけでいいわけです。カントは、「相互作用(Interaktion)」と言ってこれがベースだと考えていました。――そういう行為や、インタラクションが複数あった場合に、複数となるときに、どう絡み合うか、そしてどういう戦略を取るか。そういうこと考えることが、システム論の中で今一番気になっているところです。》
《オートポイエシスということについて、もう一度確認しておくと、「システムが自動的に自分を作る」ということです。オートポイエシスで作られるのは、システムなんですよ。つまり循環的な定義にしかなっていないのね。》
《形成作用というのは、先程言った単位の形成の話ということになるわけです。ところがシステムの場合は、この単位というものは必ずしも塗りつぶしされた単位ではないわけです。普通単位というものは塗りつぶされている。だから、関係は外延的関係であるということになる。ところがシステム論の場合は、単位がこうなっていて、要素が幾つもあって、それらの要素がお互いに関連しあって、かつ表と関連しているということになっているから、「単位」の意味が変わってしまう。ですから単位をどのように容認するかというところで話が変わってきてしまう。複数をとるということは、同時に単位を考えなければならないということでもある。しかし、非常に厄介なのは、システムの内部の単位という可変的なものが、システム自体が単位となったときにどうなるかという問題なんですよ。この時にさきほどの移送のモデルでないものを考えるとすると、めちゃくちゃ難しい。オートポイエシスの議論ではカップリングという言葉を使っているけれども、正直なところよくわからない。》
●そしておそらく、「行為」には「媒介」が絡んでくる。例えば、見るという行為を成立させるための、距離という媒介と、それによる限定。
《例えば、彼がここから僕を見ているよね。でもそのあいだには距離があるわけです。見ていることは、あいだに依存するわけね。でもこの間自体は見えないわけ。でもこのあいだがないと見るという事が成立しない。だから彼と僕がいて見るという事が成立するのではなくて、彼と僕のあいだがあってみるということが成立する。これが「媒介」の発想なんです。「媒介」は見えない。けれど主観と客観の二つの極に分かれたとき、「媒介」そのものが二つを決めていくと。それを西田は「限定」というんですよ。この「限定」を非常に単純に考えると、これが自己限定なんですよ。》