●昨日の日記で引用した、十川幸司、原和之、立木康介の座談会が掲載されているのは岩波書店の「思想」2010年6号だとメールで知らせてくださった方がいました。ありがとうございます。
http://www.iwanami.co.jp/shiso/1034/shiso.html
●その座談会の「その二」も読んだ。これも、すごく面白い。ここでは、原和之と立木康介ラカン派の立場から、十川幸司がそれに対しやや距離を置いた対象関係学派的、システム論的な立場から発言していて、この違いはたんに精神分析における二つの流派の違いというだけでなく、現在、我々の前にある様々な思考の「かたち」のなかにある、代表的な二つの異なる「かたち」違いをよく示しているように感じられた。
例えば次のようなやり取り。
≪(原)
 ええ。境界の問題ですが、先ほどの欲望の話にも関係しています。つまり、何がシステムを作動させるのか、といった点は問題にされないということですか?
(十川)
 動きがあれば、そこにシステムが生まれているんですね。
(立木)
 われわれはどうも起源に遡って考えてしまう思考のパターンをもっているようです。それで、自己というシステムはどのように動いているのかを考える時も、起源は何だろう、と思うわけですね。
(十川)
 あえて起源という問いを立てるなら、コミュニケーションから受けた傷、あるいはそのコミュニケーションによって与えられた形のようなものですね。われわれがコミュニケーションの世界に入っていく時に受けた傷のようなものが自己に作動の形を与え、自己も受け身でそれを受け取るだけではなく、自己生成的に形を与え直すのだと言えます。≫
≪(立木)
 ラカンは、傷というより欠如について語りました。主体がシニフィアンの次元に入るとき、それとひきかえに失うものがある、と。このことは、実は、われわれはどうして話すのか、という問題と深く結びついています。僕はそのレベルで、このシステムのモーターは何か、原因は何か、と問いたい気がするのですが。
(十川)
 モーターは何か、ということですか? それは−−誤解を招く表現かもしれませんが−−「生命」と呼ぶしかないものでしょう。しかも、その生命はみずからで完結するものではなく、社会(他者)との関係の中でしかみずからを維持できないものです。言い換えれば、人間という生命体の生存の条件には、コミュニケーションが含まれている。そして、そのコミュニケーションが暴力的な性質を帯びたものであることは先ほど言ったとおりなのですが、それにもかかわらず人間がコミュニケーションに入れるのは−−原さんのおっしゃる言語に対する信とは少しニュアンスが異なりますが−−世界に対する信があるからです。世界に対する信がなければ、コミュニケーションの世界に入っていけない、あるいはコミュニケーション・システムを形成しない形で言語や情動と関わりをもつしかない。それは生存の一つの病理的なあり方です。≫
≪(立木)
 人間が言語と関係をもつと、それとひきかえに失うものがある。ラカンはそう考えます。そういうレベルのことは、システム論ではどう位置付けたらいいのでしょうか?
(十川)
 欠如とひきかえに成立する自己の構造ということは……基本的に問題にしていないんです(笑)。議論の方向が違いますから。
(立木)
 要りませんか、その次元は? もっともラカンにしても言葉以前の世界といったものを実在的にとらえているわけではありません。そこが問題なのではない。われわれはいかにしても言語の外になど出られないわけだから。しかし、われわれが言語にとらわれている、というこの状態は、ラカンにとって何らかの喪失抜きにはありえない。ラカンが1953年に「物の殺害」と言ったのもそのことです。言語は物を殺す。同様に、言語は人間も殺す。主体が一つのシニフィアンに同一化すれば、他方ではその存在が欠如とならざるをえない、という疎外の理論も、まさに欠如とひきかえに言語の中へ入っていくという思想です。
(十川)
 世界の根源に欠如や喪失を想定し、そこから理論を構築していくという方法論があります。例えばラカンフロイト読解などはその最たるものだと思います。このような方法を「否定神学的」といって批判する人もありますが、これはこれで私たちの思考を遠くまで導いてくれる力をもっています。一方で、欠如や喪失を最初に想定するのではなく、生成する力やその際に獲得する能力に力点を置いて論理を展開する方法があり、私はこの後者の論と親和性があります。欠如や喪失というのは、見方を変えれば別の側面の過剰や新たな形での獲得ということなので、これは物事の二つの異なった側面ということになります。しかし、ここで重要なのは、欠如を埋める形で獲得がなされているのではない、また喪失の場所に何かが生成しているわけではないということです。そのように考えると、やはり欠如や喪失が起源にあるという考えになってしまいます。おそらく精神分析経験を考える際には、欠如と生成という二つの問題系を視野に入れることが必要なのだと思います。言うまでもないことかもしれませんが、生成という問題系に焦点をあてることは、自分の無力さや現実の悲惨さを見ようとしないということではありません。これはまた違った光の下で現実を深く見据える方法なのです。
(立木)
 僕も、オートポイエーシスの理論に欠如は要らない、というのは分かります。要するに、今も十川さんが言われたように、根源的な欠如のようなものを考える思想の系譜とそうでない系譜がある、ということでしょうか。≫
●ここでは、十川幸司立木康介も二つの立場の違いを、「欠如」を根源として最初に想定するのか、あるいは「生成」を第一に想定するのかの違いとして捉えているようだけど、ぼくはそのようなまとめかたは図式的である(あらかじめある図式に囚われている)気がする。それは、最初に根源的な否定があるから「一」が成立するのか、それとも「一」は否定(あるいは言語)と無関係にあり得るのか、という違いだと言い換えることが出来るのではないかと思う。それはつまり、言語(あるいは欠如)がなければ「一」が成り立たないのか、なくても成り立つのか、という違いと言える。だから、むしろこの両者の最も大きな違いは、「言語」を、人間を規定する第一にして最大のシステムとみるのか、それとも、「言語」は、人間を規定する複数のシステムのうちの重要な「一つ」であると考えるのかの違いのように思われる。後者の場合、「一」が根源である必要がなくなる(あるいは、「根源」が必要なくなる)。
例えば『魂と体、脳』で書かれたような、多数のそれぞれバラバラなエージェントの関係から「中枢(一)」が自動的に生まれ、一定期間で崩壊し、別の中枢と入れ替わるというモデルを考えれば、根源としての欠如は必ずしも必要でないことになる。
(ここで面白いのは、システムの根源が「欠如」ではなく、あえて言えば「傷」だと言っているところ。傷は、欠如ほど根本的なものではなく、傷によって、流れに乱れや偏りや滞りが出来ることでシステムが立ち上がるのだとしたら、それは根源というより「きっかけ」のようなものだと言える。きっかけは確かに「はじまり」ではあっても、その後の展開のすべてをそこに還元することはできない。)
●このことはおそらく、4日の日記に書いたこととも関係があって、「多(ノワーズな美女)」としての「一(ゲシュタルト)」ということを考えることが出来れば、否定なしでの「一」を考えることが出来るのではないか。「集合体としては明晰だが、部分としては錯雑としたもの」としての「一」は、≪石を積み上げて石垣を作るとか、環をつないで鎖をつくとかいった、部分から結果としての全体への説明が≫できないような世界(『ミシェル・セール清水高志)を浮かび上がらせる。それは、世界を因果関係の連鎖してみるのか、そうでないのか、という違いにも繋がるとも言えるのではないか。
(ネットワークはいくら緊密になり、繁殖したとしても、隙間が空いたスカスカなものであり、ある範囲を埋め尽くしたり、全体に至ることはなく、「多としての一」も、常に限定されたローカルな部分に留まるものだから、これは「全体主義」のようなものとは違う。)