⚫︎「ジークアクス」、最終話。まさか、ラスボスがアムロではなく古谷徹(の声)だったとは…。
⚫︎それはともかく、最終話そのものとしては、特に驚くべきことはなかったように思う。お話を支える世界観の根拠として「無限反復する世界」というのは「シュタインズゲート」以降、特に目新しくはないし、その反復の根拠・動機として一人の少女の「思い」があるというのも、「涼宮ハルヒ(「エンドレスエイト」)以降では、特に目新しくもない(そこに収束させるのは、むしろありふれている)。「エヴァ」みたいなところもあるし、「トップ2」みたいなところもある。ぼくはそこまで深いガンダムマニアではないが、それでもいくつか分かるくらいにガンダムネタも仕込まれていた(キシリアの殺され方、とか)。既にある「使えるツール」を使い倒して複雑に組み合わせ、コンセプトの一貫性を保ちながら、破綻なくうまくお話を納めた、という感じだと思った。
⚫︎一つ気になったのが、マチュが到達する価値観が、自立した強い個として、常に自分を更新させ成長させながら、(他者に依存せず)自分自身の力で生きていくことこそが自由だ、という、典型的な「新自由主義」的な価値観であるところで、(90年代ならばともかく、今となってもなお)この価値観に全く疑問を感じていないところに、うーん、という思いがあるが、でもあま、マチュはそういう人だよなあ(スタジオ・カラーってそういう人たちだよなあ)とは思う。ただ、これこそが「真のニュータイプ」だとか言われると、いやいやちょっと待て、とは思う。
⚫︎ファーストガンダムでは、ララァがシャアを庇ってアムロに殺される。しかし「ジークアクス」の向こう側(オリジナル)世界では、シャアがララァを庇ってアムロに殺される。ララァとシャアとの位置が入れ替わっている。つまり、「ジークアクス」ではそもそもオリジナル世界が「正史」と言われるファーストガンダムとは連続性の絶たれた別の世界なので、もしかすると「ジークアクス」は宇宙世紀ものとは言えないのかもしれない。まさに「外伝」というか。
⚫︎「ジークアクス」では、「この(多)世界の成り立ち」の根本を支えている人物(というか、世界の成り立ち方に対して介入し得る人物)として、ララァとシュウジとシャアの三人がいる。この3人にかんしては、こちら側の世界と向こう側の世界とに「多重存在」している(シャアはこちら側の人物であるが「向こう側」も知っている)。世界の根本はララァであるが、シュウジは、ララァを守るために「この世界」を消そうとしていて、他方でシャアは「この世界」の持つ「歪み」を正すためにララァを消そうとしている(自分が生き残ってしまうことが、世界を歪めているという認識がある)。
この「(多)世界の成り立ちにかんする戦い」に、「この世界」側の人物として介入する資格を得ることができたのが、新世代のニュータイプであるマチュ(と、ニャアン)だ。マチュは、シュウジとシャアの戦いの間に割って入る。そして、シュウジの持つララァへの感情的な癒着を解こうとする。シュウジは「ララァを守らなくては」と思っているが、それは余計なお世話だ、と。ララァはララァで自分で自分を救うので、お前が心配することはない。つまり、この世界の「歪み」は実は「ララァの気持ち」によってできているのではなく、「シュウジのララァへの執着」によって、いわば「シュウジ+ララァ」の力の合成(癒着)によってできていた。だから、そこからシュウジ(の執着)を引き離せば、この世界の歪みは自然に解消されるだろう。ここでマチュはカウンセラーのような役割を持ち、シュウジは「この世界」でマチュと出会うことで、自分の内にあるララァへの依存や執着を認識し、それを解くことができた、ということになる。
以上が、「ジークアクス」における「(多)世界の成り立ちの根本」をめぐる戦いだろう。これは結局、「わたし」と「あなた」の間で作用する、感情・癒着・依存という精神的次元での出来事だ。で、これって結局は「エヴァ」だよね、という話になる(世界の存在論的な存立構造がそのまま人物たちの精神構造の反映であるという二価的なありようは、もはやありふれているが)。
しかしこれは「ジークアクス」の半分でしかない。世界の根本の戦いがメタレベルでの戦いだとすれば、オブジェクトレベルとして「この世界」を生きている人々がいる。それが、シャリア・ブルであり、エグザベであり、コモリであり、キシリアであり、ポメラニアンズの面々であり、クランバトルを戦う戦中派の人々であり、マチュの母や(最後にようやく存在が確かめられた)父である(シャアも、半分くらいはこちら側の人だ)。彼らが生きる「現実」は、社会的関係であり、権力闘争であり、戦争であり、資本主義であり、政治である。そこには、ニュータイプと旧人間との分断があり、政治的な友敵関係があり、力の格差や経済格差があり、戦争の影響の大小という格差もある。その中で、シャリア・ブルは、戦争の回避と、ニュータイプの解放と旧人間との共存を目指して行動し、ニュータイプによる優生思想を実現しようとするキシリアと対立する。地球連邦はジオンとの勢力逆転を画策し、サイド6はジオンに対する経済的優位を誇り、ポメラニアンズは法の網の目をかい潜って金儲けしようとし、マチュの母親は娘の将来を心配する。こちらが、従来のガンダム的世界だと言える。
「ジークアクス」の面白さは、世界の根本的な存立構造というレベルと、その構造の上でなされる様々な力のせめぎ合いのレベルという、本来異なる階層にある戦いのありようが、同一平面上に並立的に配置されて、水と油のように噛み合わない双方を強引に平坦に接続させてみせるというコンセプトにあり、そのコンセプトが最後まで一貫して貫かれ、ガチャガチャしたままで、最終的にもどちらか一方に収束することがなかった、という点にあるだろう。だから我々は、目まぐるしく様相が入れ替わる展開に翻弄される。
⚫︎あともう一つは、すごく大胆な「借景」というか、歴史あるガンダム・シリーズの総体を分厚い背景として利用することで濃厚な密度を作り出すというやり方も新鮮だったことは否定できない。しかし、ただそれだけだったら、マニアによる批評的読み替えに過ぎなかったとも思う。
⚫︎従来のガンダムだったら、シャリア・ブルという人物は、深掘りしがいのある、非常に興味深い、主役となり得る人物で、せっかくこんな面白い人物をピックアップしたのに、掘り下げが今ひとつ足りなくて勿体無いという感じはどうしてもあるが、それは「ジークアクス」という作品がやることではないし、スタジオ・カラーの作風でもないだろう。
シャリア・ブルは木星で、自分は完璧に無力で空っぽだと悟ることによって完全な自由を得たと感じた。その「自由」とは、生きるのも死ぬのも等価であり、戦争があろうがなかろうが、多くの人が死のうが死ぬまいが、そこに本質的な違いはないという虚無としての自由だろう。ゆえに、その自由の感覚のなかで死を受け入れる。だがその時、何の偶然か、たまたま助かってしまう。死ぬのも生きるのも等価であるなら、たまたま助かったならそのまま生きるだろう。そのような感覚の中で、その後もまた生き続けるのだとしたら、その生を、戦争の回避とニュータイプの解放(人類の進歩)に捧げてみようと思ったのだろう。だがこの「目的」は「(すでに死を受け入れた自分が)仮にこのまま生きるのならば」という仮定の上で選ばれた任意の(仮定の)もので、彼は別にそこに絶対的な正義があるとは思っていないだろう。それが仮の目的でしかないのであれば、場合によっては、ギレンについても良かったし、キシリアについても良かったのだ。だが、彼はたまたまシャアに出会い、シャアという「人物」に共感し、興味を持ったことで、ギレンでもキシリアでもない、第三の勢力となった。もちろん、彼にもまだ、戦争はあるよりないほうがいいし、人は殺されるより殺されないほうがいいし、ニュータイプという新しい存在が生まれたのならば、彼らは彼ららしく生きられたほうがいい、という、それくらいの、(仮に、「人間の生」に意味があるということを前提条件としておくならばそうであろう、という)相対的な正義の感覚があったということだろう。ただ、それは彼にとって「自分の(切実な)問題」ではない。彼は、死後からこの世界を見ているようなものだ。
(彼にとってニュータイプは、「たんに新しい存在」でしかなく、仮に旧人間より相対的に優れているとしても、相対差にすぎず、そこに「進歩」や「革新」のような絶対的な意義を見出してはいないだろう。この点で、ニュータイプを「信仰」するキシリアとは相容れない。)
自分は本気で正義を信じているわけではなく、基本として虚無である。今は、戦争回避という目的のために生きているが、その目的自体が仮固定されたものでしかなく、特に生きる気力もない。シャリア・ブルはそのことを自覚している。そして、シャアの中にもまた、自分と同じ虚無を見ている。だからこそ彼は最後に(目的の達成のために)シャアを裏切る。将来のことは、生きる気力があり、進歩を信じ、正義を信じる人に任せたほうがいい。自分はそうではないし、シャアもまた、そうではないだろう。だから、シャリア・ブルのシャアへの裏切りは、シャアへの最大限の共感であり、友情であったのだと思う。
こう考えると、シャリア・ブル(やシャア)と、マチュとは、まったく対極にあるような存在だと言える。双方は、まったく分かり合えないくらいに違っている。この異質なぶつけ合わせが「ジークアクス」だろう。そしてシャリア・ブルは、まったく理解できない新しい存在であるマチュに行き先を任せて、自分は後方支援に徹する。