2025-11-23

⚫︎芸術において重要なのは、スタイルとクオリティだと、ぼくは思っている。たとえば、セザンヌのスタイルを持ち、セザンヌの作品と遜色ないクオリティをもつものであれば、それがセザンヌの手によるものでなくても、「セザンヌの絵画」といって良い、とぼくは思う。美術史において「セザンヌ」という名は、画家個人を指すというよりは、そのスタイルとクオリティを指す。

スタイルとクオリティは、それを生み出した「人」から自律していて、必ずしも重なり合うとは限らない。

ただし、セザンヌのスタイル、セザンヌのクオリティを「生み出した」のは、個人としてのセザンヌなのだから、その功績はセザンヌという人に帰するとは言える。

(芸術は、芸術史の中から生まれるという側面もあるので、セザンヌだけの功績とは言えないが。)

(スタイルとクオリティは、それを生み出した人の身体的固有性、歴史的固有性、個としての人生の固有性から生み出されるものではあるので、その人自身から完全に切り離すことはできない。しかし、その人自身の固有性に完全に還元されるものでもなく「切り離し得る」。逆に言えば、切り離しても成立する強さを持ったものを「作品」と呼ぶ。)

ここでややこしいのは、芸術作品には、芸術的価値(美的な価値)とは別に、象徴的な価値があるとされる点だ。セザンヌの作品が驚くほどの高値で取引されるのは、芸術的な価値(つまり、スタイルとクオリティ)によるのではなく、あくまで(美術史という言説と協働する社会的コンセンサスによって評価された)象徴的な価値による。セザンヌの最高の作品と遜色のないスタイルとクオリティを持った贋作と、セザンヌ自身の手による、それほど良いとは言えない作品があったとして、「芸術的な価値」は前者・贋作が上だとぼくは思うが、しかし「象徴的な価値」としては前者・贋作はほぼゼロに近い。

(象徴的な価値としての「セザンヌ」という名は、人によって評価が分かれる曖昧さを持つスタイルとクオリティにつけられた名というよりも、その由来を客観的に調査し一義的に特定し得る画家個人につけられた名を根拠とするという側面が強いだろう。)

(美的には「本物」であっても、由来的、来歴的に「偽物」であるのなら、象徴的価値としては「偽物」になる。象徴にはクオリティより血統書が重要だ。)

「贋作」とは、その芸術的な価値によって、象徴的な価値をハッキングしようとするチートだ、と言えるのではないか。それは、社会的なチートだとは言えるが、芸術的・美的にはチートだと言えるだろうか。それは、芸術における、芸術的な価値と象徴的な価値という、必ずしも一致するとは限らないもの同士の曖昧な重ね合わせという脆弱なポイント(いわば欺瞞である点)をつく。

芸術的な価値と象徴的な価値とが、相違と相容れなさを曖昧にしながら互いにもたれ合うことで芸術という制度が成立している。

(とはいえ、ぼくは象徴的側面をかるく見ているわけではない。ある程度の根拠付けに基づいた「象徴的な価値としての美術史」があるからこそ、それによってスタイルとクオリティを見極める「目」が育てられるという側面を軽視することはできない。)

(象徴的な価値によって芸術的な価値が保証されるわけでは必ずしもない。たとえば、芥川賞受賞作という事実はその小説のクオリティを保証しない。それは、分かっている人には分かっていることだ。しかし、まあ、完璧ではなくてもある程度は保証されるだろうという曖昧な信頼によって、あるいは少なくとも「信頼しているかのようなそぶりで行動するべきだ」という格律によって、芸術という制度が支えられている。しかしそれは嘘(というか「フィクション」)だし、贋作はそれが嘘だということを暴くが故に、制度としては許されない。そして、嘘を嘘だと暴けば良いということでもない。嘘を嘘だと分かった上で、あたかも信頼しているかのようなそぶりで振る舞うことによって、なんとか成立している制度というものが社会の中には結構あって、社会がそれによって支えられているという側面がある。現実に機能しているフィクションのことを「制度」と言う。嘘を本当だと素朴に信じるのでもなく、嘘は嘘でしかないというシニシズムに陥るのでもない、多くの人がその中間の曖昧な態度を維持することで社会は成り立っていたのだなあと、最近になって気づいた。つまり、嘘を素朴に信じる(信じたい)人と、嘘は嘘でしかないから嘘を利用して利己的に振る舞えばいいと思っている人の両極端になってしまったことで社会が崩壊しつつあるのが現代ではないか、と。)

(つまり「現実」が存在することを多くの人が忘れているのではないかと思う。ただしこの「現実」とは「そんなのはお花畑だ、現実を見ろ ! 」と難癖をつけてくる現実主義者の言う「現実」とは全く違うものだ。現実主義者の言う「現実」とはほとんど「慣例」のことだ。これは「芸術」とはまたべつの話だが。)

⚫︎オーソン・ウェルズのフェイク』を、今こそ観直すべきか。モキュメンタリーホラーなどとの関連の問題も含めて。

⚫︎追記。『オーソン・ウェルズのフェイク』について。2005年2月11日の日記。

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