●以下はたんなる思い付き。昨日の日記で書いた、否定的な他者を介する原初的サディズムを、ポストモダンぽく「否定神学的システム」と言い換えることができるし、ならば原初的マゾヒズムは「郵便的主体的システム」と言い換えることができるかもしれない。ただ、ポストモダン的な思考では両者は対立するのだけど、昨日の郡司モデルでは、両者は決して混じりあうことなく重なり合い、両立不可能なまま協働することで、第三項としての主体感(SoA)を生む、ということになっている。
つまりここでは、原初的サディズム(記号)、原初的マゾヒズム(対象)、SoA的(幻の)操作主体感(解釈項)のようにして、パース的な三項関係ができているようにもみえる。そうであるならば、さらに、決して混じりあうことのない異なるシステムの協働によって立ち上がる「幻」としてのSoA(操作的主体感)を、ハーマン的な脱去する「実在(オブジェクト)」と考えることはできないだろうか、と思ったりもする。
また、原初的サディズム(的双対図式=制度)によって限定され、個別化されながらも、同時にそこの内に原初的マゾヒズム=「組み込まれた他者」を含む主体と環境、主体と対象の関係(あるいは、複数の主体間の関係)は、互いに包み・包まれるものでもあるため、靴下をひっくり返すように内と外とが反転可能であり(西田的な逆限定)、というか、それは常に半ば反転しかけている状態で、かろうじてSoAを(更新しつづけながら)維持しているということになる。
(SoA的主体は、靴下や手袋、袋のような、閉じ切れていない穴の空いた「膜」のようなものとしてある。)
そしてまた、原初的サディズムと原初的マゾヒズムによる交わらないものの重なりによるSoA(自己操作感)の発生のような主体化、個体化の作用(パース的な三項関係の発生)は、フラクタル的にさまざまなスケールにおいて見出されると考えることもできるのではないか。
●郡司ペギオ幸夫は、《組み込まれた他者によって初めて、生命体は、社会性を持ち、知覚するのみならず感覚し、自発性に関する自覚を持つ。原初的マゾヒストは、社会的主体を構成する中心概念である》、と書く(昨日の日記で引用した)が、その具体例として、文化人類学者、西井凉子によってフィールドワークされた、タイの漁村を挙げている。
《その拠点は、ナー・チュアと呼ばれる年輩の女性の家だそうだ。ナー・チュアは、生涯独身で子供も持たず、しかし比較的若いうちに村では異彩を放つ立派な家をもった。周囲の家が萱葺き高床式であるにもかかわらず、ナー・チェアの家は、板の壁と鎧戸式の窓を持ち、開放的な他の家に比べて堅牢で、窓を閉めると真っ暗だ。だから夕方になるとこうもりが大挙して押し寄せるという。羨望と嫉妬から家のことをとやかく言われながらも、この家のおかげで、親族も親族でない者も、様々な人間が同居し、出ていき、また或る場合には戻ってくる。西井は、この家を媒介として人々の関係がどのように展開していくのかを記述し、ナー・チェアーの家が、膜のような存在として村の人間関係を紡いでいくと述べている。》
《ナー・チュアは原初的マゾヒストである。彼女は、村社会への帰属---結婚して家庭をもち、家庭の内と外を厳格に区別する単位として村の構成要素になること---を否認している。彼女が村社会を否定していないことは、彼女の家が村の人間関係の結節点になっていることからも明らかだ。否認から出発してナー・チュアは、彼女が自らの家に課すルールを、誰とはなしに他者を受け入れることで、宙吊りにしていく。》
《西井は研究者であることで、原初的サディストである。サディストを受け入れることができるのは、ナー・チュアがマゾヒストであったからだ。(…)サディストが他者との邂逅を実現できるのは、原初的サディストと原初的マゾヒストを共立させる幼児であり、社会性を持ちつつある発達段階の脳、そしてそのような心性をいまだ持っている、極めて稀な大人である。》