●『押切』(佐藤善木)をDVDで。映画としては「ひっでえな」と言うしかないけど、こういう「お話」にはどうしても惹かれてしまう。物語内の理屈としては並行世界ということになっているけど、これは明らかに反転-鏡像的世界の話。私の複数の可能性(可能世界)の話ではなく、私の裏側にいる分離された「もう一人の私」の話。理論的にみるならば、反転世界は並行世界に比べて単調で、図式的にすらみえるのだが(だから「頭のいい人」には反転的、鏡像的分身は評判がよくないのだと思う)、しかし、反転世界には並行世界として開いて並立化してしまうと消えてしまうような確かなリアリティがある。
反転世界には、世界を複数に分離させてしまう、世界の分離をうながす力動の、もともとの源泉がある。そこには抑圧によって分離された、意識-主体とは別のオーダーの力動が刻まれており、例えば、多重人格(解離性同一性障害)でも、すべての人格がフラットにあるというより、もっとも強力な「裏(悪)の私」があり、それ以外の人格は、その強力な存在に対する共同的な抵抗という側面があるように感じられる。分離され、裏側に押しやられた強い「悪-強度」(強度とは「私」にとっては常に悪の側にある)の反復的な回帰こそが、私に複数への(多数の断片への)分裂を強いる。それは私をバラバラにするのと同時に、他者-世界をもバラバラにする。分離-抑圧という次元の重要性は、メラニー・クラインなどを読んでいると益々強く感じられるようになってくる。
とはいえ、樫村晴香によれば、強度が、そもそも主体の成立そのものを困難にするような分裂病的な分断-細分化の働きであるのに対し、抑圧に起因する(ヒステリー的)反復強迫は、意識-意味から切り離されているとはいえ、本来的には主体の原初的運動であり、それは基本的に他者へと向かう欲望であるから、それによって主体や愛が根源的に破壊され切ってしまうことはない。私の存在(と世界の存在と)をその基底から困難にする、すべてをバラバラに切り刻む分裂(強度)と、複数の私(または世界)へと私を分岐させる分裂(神経症反復強迫)とは組成からして別のもので、後者によってあらわれる、意識から分離された、裏側の世界にいる悪の私は、表の、意識の場にいる私(とその世界の意味)を破壊しに(剥奪しに)繰り返しやってくるが、それは、私の成立、世界の成立(私−世界の基底)そのものまでを破壊するのではない(世界への愛は憎しみへと反転することによって生き続ける)。双形的分身は、象徴的な世界の外から、意識的な力-意味によっては把捉されない、それ自体としてある反復的拍動によってやってきて、世界から暴力的に意味を剥奪する(しかし、そのことによって私を象徴的な場から退行させ、逆説的に欲望を満足させる)。少なくとも、分身は常に、このような悪の気配や意味の崩壊の徴候を伴ってあらわれる。
『押切』の物語は、そのことをきわめて平板に、図式的な形でなぞっている。そして、そのような分裂を回避し、私に主体としての(そして世界そのものの)統合を回復させるのが、一人の女性の存在(想像的な愛の対象)というのは、ありがちとはいえ正当な帰結にも見えるが、実は同時に、その愛の対象こそが、世界を分裂させる悪の元凶でもあったりする。
(例えばリンチを観ていると、複数の並立世界があるというよりも、複数の双数-双形的な分離が折り重なるようにしてある、という方がリアルな感じがする。リンチにおいて、その、それぞれの双数-双形的分離には、それぞれ異なった感触の「意味の無さ」が、あるいは、異なった「意味の崩壊の有り様」が対応する、と。つまりそれは、それぞれがその都度に異なるあり様で起こった、身体-情動の回路と、言語-思考-意味の回路との接触エラー(亀裂)に対応する、と。そして、それらは裏側には隠されずに、いったん分離された後に、再び「この世界」へと押し戻される、あるいは遠くからじわっと浸透して来る、という感じ。)