●『まほろ市の殺人 秋 闇雲A子と憂鬱刑事』(麻耶雄嵩)。以下、思い切りネタバレあり。
●あえて強引に言えば、これはかなり変則的な語り手=探偵=犯人というパターンだと思う。厳密には、視点人物が一人で限りなく一人称に近いけど一応三人称だし、その視点人物は表面上は探偵というよりワトソン役だし、犯人は視点人物とは別にいるのだけど。にもかかわらずそう感じさせるのは、この作品が基本的に主人公(視点人物の天城)から発せられたものが、最終的に視点人物に返されるという自閉的なループをつくっているから。だが、これがこの作家の特異なところなのだが、一見徹底して自閉的であるようにみえて、その自閉の底にある自己同一の核のようなものが分裂している。法月綸太郎が「初期クイーン論」で書いているようなメタ化の無限後退(例えば『翼ある闇』は一見そのような作品にみえるけど)と麻耶雄嵩が違うのは、メタが「メタのメタ」へと後退してゆく時、「メタのメタ」がメタを包摂するという関係ではなく、世界が世界1と世界2へと分裂するというか、同一化の核が分裂して、連続的な世界が、複数の(欠落をもった)非連続的な世界の重ね書きのような状態になるという点だと思う。自己同一性が破綻して底が抜けている世界が自閉している、というのか。複数の世界が絡み合いながら自閉している、というのか。
●この小説で、主人公の天城とその妻の耿子の会話の場面は他と完全に切り離されているかのような異様な雰囲気で、まるで天城は実在しない脳内妻と会話しているかのようだ(『叫』役所広司小西真奈美の会話のように)。そして妻の耿子が犯人なのだが、耿子の殺人は、人(死体)をたんに「人偏」としてしか扱わない無意味かつ無差別なもので(死体の右隣に本を置くことで「体」という字をつくる、というような、そして問題はたんに「人偏の漢字」を成立させることで、その文字の意味はどうでもいいのだ)、その行為はただ夫の天城に向けての「内容を欠いたメッセージ」でしかない。耿子は、夫がたまたま殺人を捜査する刑事であったから殺人という方法で夫にメッセージを送る。しかしそのメッセージは意味のない漢字であり、つまり何も書かれていないに等しい。あるいは、メッセージに意味があるとすれば、「この殺人は私がやった」ということで、死体の左耳(向かって右の耳)を焼くことで「耿」という文字を死体に署名する。これはほとんど解離した別人格からのメッセージであるかのようだ。
人の体臭と眼差しを嫌う天城に、耿子は何度も「目を見ろ」というのだが、耿子が脳内妻だとすればその目を見ることは不可能で、というか「目を見ない」ことで「耿子」が成立していることになり、その耿子から「目を見ろ(私を見ろ)」というメッセージが贈られてくるということは、ここで同一性の破綻の印が、解離したもう一人から贈られてくるということになる。
(連続殺人の動機は、人偏の漢字の辞書的な数え上げでしかなく、人偏の漢字が途切れるまで続き、その最終地点に、夫「天城憂」の「憂」を「優」にする、つまりその存在を解体するというカタストロフがまっている。
この小説では、分裂した私1から私2への閉じたメッセージの外的媒体として殺人が使われ、しかもそこで人(死体)は人偏(それ自身としては完結しない文字の一部)としてしか扱われないというひどいことになっている。しかしそれは、この小説において人物(私)は文字でしかなく、しかもその分裂した半分(偏かつくり)でしかないという自己言及でもあろう。)
これだけだと、「自己同一性が破綻している私1と私2との(外的空間を経由-媒介とした)自閉的な関係」ということなのだが(事件は家庭内-脳内で起きている)、この小説にはそれに加えて二つの不純な(想定外の、偶発的な)要素がある。一つは、表向きの探偵役である作家、闇雲A子の存在で、もう一つは、耿子によるものではない模倣犯の二つの殺人。
闇雲A子の存在が重要なのは、彼女が、直感で真実により近い位置に身を置きながらも紙一重の差で「取り違える」人物であるからだ。闇雲は、隠れ名探偵を取り違え(真の隠れ名探偵は妻の耿子であり夫の天城ではない)、真幌キラーと怪盗ビーチャムを取り違え、真犯人の車に乗って、犯人ではない車を追跡するという取り違えをする。あるいは、姪の珠代に「気がある」人物をも取り違えていた(珠代に気があるのは天城ではなく助手の見処少年であった)。彼女の存在によって、耿子から発せられた「天城だけに向けられたメッセージ」が正確に天城に届くという自己完結的なループが攪乱される。耿子からのメッセージが「破綻の印」であり、天城はそのメッセージを繰り返し受け取りつつ、徐々に近づいてくる破綻までの猶予の時間を生きているとすれば、常に正確で聡明な耿子とは正反対の、常に取り違える道化である闇雲は、天城にとって天城-耿子関係の(正確に破綻へ向かう)閉塞感を破って、破綻とは別の(斜めにずれてゆく)可能性を開いてくれるかもしれない存在であろう。
実際、闇雲の介入によって、彼女の二人の助手が殺されるという模倣犯による事件が起こってしまい、耿子が発したものが天城に届くというメッセージの自閉的ループの正確さのなかにノイズが生じることになる。模倣犯による二つの殺人は、天城-耿子という閉じられた異様な夫婦関係(脳内夫婦?)とは真逆(裏表)の、きわめて下世話でありふれた男女関係のもつれが原因であった。つまり、耿子と対称的である闇雲という人物がいるように、「天城-耿子」関係と対称的である「珠代-タクシー運転手」という関係があるのだ。だがこの二つのノイズは、耿子と共鳴するような聡明で正確な人物である怪盗ビーチャムによって見事に一連の事件から「分離」される。最終的には不純な要素は排除されてしまう。ビーチャムは天城を闇雲との関係の場から耿子との関係の場へと引き戻す。かくして、再び、耿子から発して天城へ至るループの純粋さが回帰する。天城はそこから逃げられない。おそらく、(耿子の反転形である)闇雲A子の「目を見る」ことが出来ない限りは(無口な天城は闇雲と耿子に対してのみ饒舌となるが、その饒舌の意味は異なるだろう)。
●最初の方で『叫』を例に挙げたのだけど、こうやって書いてくると、この小説は意外なくらい黒沢清の世界に近い感じがしてくる。