2022/01/13

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●もうすぐアマゾンプライムでの配信が終わってしまうようなので、『孤独な場所で』(ニコラス・レイ)を観た。空間の演出の面白さが際立つ映画なのだけど、それとは別に、これは、ハンフリー・ボガートが「孤高の気高い乱暴者」から、たんなる「自分の暴力性を制御できない幼稚な愚か者」へと失墜していく映画なのだと思った。

映画のはじまりでは、ハンフリー・ボガートの暴力は、過去の功労者(老俳優)を尊重せずに侮蔑的な態度をとる若いボンボン(映画会社の二代目社長)に向けられる。この行為は、リメイク作品で金儲けをする有力な映画監督への批判的言動とあいまって、彼が、現代の風潮に屈しない信念をもつ、頑固だが気高い孤高の存在であることを示しているようにみえる。そしてそれは、ハリウッドのスターであるハンフリー・ボガートが演じる役としてふさわしいと感じられる。彼の軍隊時代の部下でもある刑事(フランク・ラヴジョイ)は、最後まで彼をそのような人物だと評価している。

しかし、映画が進行していくにつれて、観客も、彼の恋人となるグロリア・グレアムも、そのような人物像に疑問を感じ始める。それはまず、好ましい過剰さとして姿を現わす。戦争が終わってからまったく仕事をしなくなってしまった脚本家であるハンフリー・ボガートは、グロリア・グレアムに出会ったことをきっかけに創作意欲が生まれ、常人には出来ないような爆発的な勢いで仕事をしはじめる。それにひきずられるように、恋人は彼の仕事を献身的にサポートするようになる。恋人による献身的なサポートを当然のように受け入れているところに、ちょっとだけ嫌な感じが生まれるのだが、ここではまだ典型的なラブストーリーと言える。

この映画でハンフリー・ボガートは、殺人の疑いをかけられている。それに対して当初は、あくまで冷静に振る舞っている。あまりに冷静でありすぎるがゆえに疑われもするのだが、軍隊時代の部下であるフランク・ラヴジョイは、彼は部下に感情をみせなかったが、部下から慕われていたというようなことを言う。しかし実は、まったく仕事をしていなかったのが、急に爆発的に仕事をしだすというのと同様に、普段は冷静だが、キレるとまったく抑制がきかなくなる人物だということが分かってくる。

殺人の件でグロリア・グレアムが警察に呼ばれたことをハンフリー・ボガートに黙っていた、ということにキレて、ヤケになったように車を乱暴に運転している時に、たまたま遭遇してぶつかりそうになった車の運転手をボコボコに殴りつける場面で、ハンフリー・ボガートの化けの皮が完全に剥がれる。ここでは、彼の暴力を正当化するものは何もない。さらに翌日、被害者に金を送った後、彼が警察に出向くので、自首をするのかと思いきや、(たまたまその場に居合わせた) グロリア・グレアムの夫に嫌味を言うだけだ。観客はここで、ハンフリー・ボガートに対する敬意を完全になくすだろう。

ここから先は、グロリア・グレアムがどうやってハンフリー・ボガートから逃げられるのかというサスペンスとなる。ハンフリー・ボガートは、自分の暴力性を制御できない、狂気をはらんだ、しかし惨めな男として描かれる(暴力を制御できずに次々と下手をうつ惨めさ…)。正気を失ったハンフリー・ボガートは殺人者の顔になり、グロリア・グレアムを殺してしまいそうになる一歩手前で、「彼の殺人の疑いが晴れた」ことを知らせる電話のベルで正気に戻り、殺人者にはならずに済む。

この映画でハンフリー・ボガートは、気高い乱暴者でも、狂気のシリアルキラーでもなく、たんに、リアルに駄目な暴力男に過ぎない。スターであるハンフリー・ボガートがそのような役(ある意味で普通の人)を演じている。このことが、ハリウッドの神話的古典時代が終わり、コンテンポラリーが始まろうとする時代の監督であるニコラス・レイの作品の特徴を示しているように思った。