2023/03/11

古澤健『キラー・テナント 迷宮の宴』(『怪談 回春荘 こんな私に入居して』のR-15版)をU-NEXTで観た。「回春荘…」との違いは、前半で風景ショットが多く挿入されること、性的な表現がややマイルドになっていること、終盤の展開がやや詳しく描かれること、くらいだろうか。

改めて面白かった。まず、主人公(石川雄也)が面白い。彼は、明らかに間違ったことをしているにもかかわらず、それが上手くいかないのは「自分の間違い」のせいではなく「人が間違っている」せいだと、ナチュラルに思い込むことができる人である。道に落ちているゴミを拾ってきて、それをアパートの敷地に並べて売ろうとするが、さっぱり売れない。売れないのは、「売れないに決まっているものを売ろうとする」自分の側に原因=問題があるのではないかと疑うことは全くせず、その原因=問題はただ「買おうとしないアパートの住人たち」の側のみにあると解釈する。だから、自分が大家に家賃を払えないのも、自分が働かないせいではなく、ゴミ=商品を買おうとしない住人たちのせいである、と。住人がゴミ=商品を買いさえすれば、自分はすぐにでも家賃を払うつもりだ。家賃を支払えないことはとても申し訳ないことだと思っているが、ただ、それが出来ないのは自分の責任ではない、と。

これは、人のせいにする、とか、責任逃れ、とかいうレベルのことではなく、彼にとっての論理空間、因果的解釈空間それ自体に「捩れ」が生じているということだろう。

彼には、DV夫から逃げてきた女(桜木優希音)を自分の部屋に匿っているという意識がある。しかし(出会いはそうであったとしても)実際は、彼女がその部屋で「客をとる」ことで得たお金で二人は生活しており、滞納しがちな家賃も彼女の稼ぎから支払われているようだ。つまり実質的にはその部屋は女の部屋であり、主人公は彼女にパラサイトしているわけだが、彼の意識では「女を自分の部屋に居させてやっている(DV夫から守っている)のだし、その上、仕事場を提供してやってもいる」となる。ここにあるのは、ダメ男と、なんだかんだ言ってダメ男に依存してしまう女というありふれた話とは違う何かだ。捩れた論理空間と通常の論理空間とが、二人の関係の中で、メビウスの帯のようにくるっと一回りして閉じられている。

ただ映画の前半では、彼はまだたんなるダメ男と区別がつかない。言い換えれば、捩れた論理空間と、通常の論理空間の間の摩擦は、彼をたんなる「ダメ男」として現象させる程度に留るものだ。

また彼は、ピンク映画の主人公であるにもかかわらず、性行為を行うことができない。同居する女が性行する相手は「客」であって彼ではない。彼女の性的媚態は金を払う男にのみ向けられる。彼はただ、それを盗み見してマスターベーションを繰り返すしかない。映画の最初と最後で、彼と美園和花との性行シーンがあるが、これは明らかに彼の妄想である(彼は既に彼女を殺しているのだから)。この映画は一面では、ただマスターベーションを繰り返すしかない男が、とうとう、現実の性行為と同等かそれ以上にリアルで生々しい「性行為の妄想」を得るに至るまでの映画だとも言える。彼はまず「盗み見して」マスターベーションを行い、ついで、扉越しに妄想でマスターベーションをする(「同居する女と、主人公を痛めつけるヤバい住人とが性行する場面を、大家が覗いてマスターベーションしている」という場面を妄想する)。

この瞬間に、画面は三分割になり、歪んだ論理空間と通常の論理空間の間に調停不可能な亀裂が走る。通常の論理空間の中に、それとは相入れない歪んだ論理空間が強引に押し入ってきて(おそらく主人公はその瞬間、今までは得ることのなかった特別な快感を得たのだろう)、それまでは、一定の摩擦を生みつつも融通無碍に両立していた二つの論理空間は、混じり合わずに、両立の崩壊が始まり、齟齬が看過できないくらい大きくなる。それが終盤の悲喜劇的な展開につながっていくだろう。その過程で複数の死者が出て、彼は自分自身の歪んだ論理の中で「完璧な妄想」を手に入れるが、それは同時に、自分自身の歪んだ論理空間にたった一人で完全に閉じ込められるということでもある。もはや他者はトルソとしてしか現れない。

(6日の日記にも書いたが)おそらく警察官が血のついたナイフを指して言ったと思われる「あんたのか」という言葉が、時間を遡行して「一万円札」や「合鍵」を手にするときにも超自我からの言葉のように響く。ナイフは、「わたしのものではない(わたしの元に届くべきものではない)」にもかかわらずわたしの元に届き、わたしを殺人に導き、しかも「わたし」は「わたしのものではない」ナイフを手放すことができなくなってしまう(これもわたしのせいではない)。「わたしのものではない」ナイフが「わたしの元」にある限り、「わたし」は殺人を続けることになる。勿論それは「わたし」のせいではなく「ナイフ」のせいなのだ。

殺人はナイフのせいでわたしのせいではないので「わたし」は誰も殺していない。殺していないのだから(たった一人で閉じ込められた)「わたし」の世界では誰も死んではいない。大家はヤバい住人と性行しているし、「わたし」はヤバい住人にいじめられていた女を救い出し、その女と完璧な性行を(妄想)する。

結局、主人公が全員を殺してしまったということなのかと思ったら、ラストをみると桜木優希音だけは生き残ったようだ。彼女は主人公との関係(歪んだ論理空間と通常の論理空間とのメビウス的な接合)から逃れて、通常の論理空間の側から、主人公が消えてしまった世界を眺めている、ということだろうか。

(追記。「通常の論理・因果空間」は必ずしも「正しい論理・因果空間」ではない。それは多くの人々に共有されているという意味で「通常」なのであり、それはそれでまた、主人公のものとは別の「歪み」を持つだろう。)