●ちょっと必要があってリンチの『ロスト・ハイウェイ』を久々に観たのだが、とても面白かった。難解な作品と言われているけど、構造はかなりシンプルだと思う。これをオーソドックスなホラー映画としてつくるとすると、おそらく80分くらいの映画になる。
『ロスト・ハイウェイ』も『マルホランド・ドライブ』も、「二つの場所に同時に存在する」という状態についての映画だと思う。その二つの場所は、切断されていつつも(二つの場所)、連続してもいる(一つの場所でもある)。そこに存在する、わたし1とわたし2とは、別人であると同時に同じ「わたし」でもある。そして、通常我々が用いている論理形式においては成り立たない、このような非連続=連続が成り立つために、世界の基底である論理性そのもの(時空そのもの)に、ねじれが加えられなければならなくなる。
こちら側と向こう側とは、遠く隔たっているが、電話線(遠くからの声=命令)や謎の女性(黒髪/金髪の反転)、あるいは性、暴力、裏切り、秘められた過去、等を示す兆候と濃厚な気配によって繋がっている。逆からいえば、それらのものは論理性(世界の基底、時空)の「ねじれ」のあらわれである。
現実/夢という二項対立で考えるなら、世界1も世界2も、わたし1もわたし2も、どちらも同等な夢であり、現実はただ「ねじれ」としてあらわれる。「ねじれ」以外のものはあやふやで、書き換え可能ですらあるが、「ねじれ」そのものからは逃げられない。
そして、このような状態がリアルなのは、そもそも「わたし」というものが、内的な行為としての「わたし」と、外的な観測者としての「わたし」という風に、二つの異なる階層にまたがる「階層性の破れ」として現象するものだからなのではないだろうか。
●リンチは「顔」で表現する作家であるけど、特にこの映画のビル・プルマンの顔はすごい。その絶妙な肉のたるみ方と、途方に暮れる表情は、ただそれだけでもこの映画を支え得るほどの表現性をもつ。