●『恋の渦』(大根仁)は、登場人物の誰一人として好きにはなれず、その上、観れば観るほどどんどん不快になってゆくにもかかわらず、目を逸らすことが出来ずに最後まで観てしまうという稀有の体験だったので、今更ながら映画版『モテキ』(大根仁)をDVDで観てみた。
『恋の渦』では、DQNが、『モテキ』ではサブカル系の人たちが扱われているのだけど、どちらにしても「ネタ」として利用しているだけのようにみえて、その点が嫌な感じだったことは変わらない。それと、『恋の渦』では、「いい話」はあったとしても、決して「いい話」に流れることなく、最後まできちんとした展開があったのだけど、『モテキ』では、前半はネタで押してくるものの、後半なんとなく納まりのいい、いい話のいい雰囲気の方にもっていって納めてしまった感じがあった(最低なオヤジだったはずのリリー・フランキーが最後の方にはなんとなくいい人っぽくなっていたりとか)。それはある意味でメジャーの限界というか、最大公約数の観客がそれなりのカタルシスを得られるところに落とし込む必要があって、超低予算の『恋の渦』と同じようには出来ないよ、ということかもしれない。
ただ、良かったと思うのは、長澤まさみが、美人で巨乳で天然でエロくてピッチで謎めいているという「最強の状態」で登場して森山未來が翻弄される話というだけではなくて、後半に、実は彼女はけっこう「つまらない女性」だったということがちゃんと描かれているところだと思う。つまり、森山未来の側の物語だけでなく、長澤まさみの物語にもちゃんとなっている。
(森山未來長澤まさみの行動の不可解さ=今までの経験にない規格外なところに、ある種の自由奔放さを見出して困惑しつつも――様々なものに囚われている自分と比較して――魅惑されるのだけど、自由、あるいは気まぐれに見えた彼女の行動には分けがあり、彼女もまた、同様に様々なことに囚われた人であり、まったく自由などではなかった、と。)
長澤まさみ森山未來に対して、不可解なピッチのような振る舞いをする(明らかに気がありそうな態度でべたべた迫ってくるのに、イマイチ踏み込ませてくれない)のは、ただ森山未来を翻弄するためではなく、一方で積極的に迫るのは、妻帯者である彼氏があまりかまってくれないことへのあてつけと憂さ晴らし(不満の解消)であり、もう一方で踏み込ませないのは、実は森山未來を相当気に入っている(気に入ってしまった)のだけど、昇り調子のイベントプロデューサーである「イケてる男の彼女」という、虚栄心を満足させてくれるポジション(いろいろなサブカル・ヒーローたちとも仲良くできるし)も失いたくないということで、奔放にみえる振る舞いは実は保身的なセコさのあらわれである、ということが後半に分かる。彼女のメッキははがれ、「あー、いるよね、こういう人」という感じになる。長澤まさみは決して最強の女性ではなく、自意識を空回りさせつづける森山未來と大してかわらないちっちゃい人だった、と。
「藤本くんとじゃ成長できない」という彼女の言葉は、彼女自身の虚栄心こそを語っているようにみえる。「成長できない」というのは要するに、「藤本くんの彼女」というポジションでは、例えば「ピエール瀧」と対等に気軽なバカ話ができない、ということだろう。でもそれは、彼女自身が、自分がピエール瀧と対等に話せるのは彼氏の地位のおかげだという風に感じている、ということだ。そして、森山未來と会って楽しければ楽しいほど、自分が虚栄心に囚われていること(よいポジションへの固執)を意識せざるを得なくなるので、自己嫌悪に陥る。物語がすすむにつれて、長澤まさみのキャラは輝きを失ってしぼんでゆく。でもこれは、長澤まさみのキャラを貶めているのではなく、むしろこれをちゃんと描くことによって救われていると思う。
このような、双方に対して平等に扱う感じ、というのは『恋の渦』にもあって、それがあるから、不快な感じしかしない物語や人物を、なぜか最後まで観てしまうのではないかと思った。物語が人に与える感情的反応を(ネガティブな感情もポジティブな感情も共に)、理性的に抑制させる装置が常に作動している。ただ、このバランス感覚というか理性的な平等感と(上から目線でキャラを操作する)「ネタ感」とは紙一重とも思う。すべての人物を平等にネタ化している(キャラに対する敬意や愛情がない)、という風にも考えられる。
●この映画に限らず、森山未來ってすごいなと思う。松田優作的な没入型で、ときどき若い頃のドニ・ラヴァンと重なって見える(『汚れた血』みたいに走るし)。