●お知らせ。勁草書房のウェブサイト、けいそうビブリオフィルに、「虚構世界はなぜ必要か?」の24回目、「「ここ-今」と「そこ-今」をともに織り上げるフィクション/『君の名は。』と『輪るピングドラム』 (3)」がアップされています。今回は主に『輪るビングドラム』について書きました。去年の四月からつづくこの連載も、次回で完結する予定です。
http://keisobiblio.com/2017/09/13/furuya24/
●確か、大根仁の『モテキ』で、満島ひかり森山未來を誘って『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』の聖地巡礼をするという回があったはずだと思って、調べたら二話がそうで、で、二話だけDMMの配信で改めて観た。
前に『モテキ』を観た時には、『打ち上げ花火…』を観ていなかったのだけど、オリジナル版を観てから観ると、改めて成程と感心した。おそらく、大根仁は『打ち上げ花火…』が大好きなのだろうけど、しかしそれでも、この回はかなり冷静で分析的な『打ち上げ花火…』への批評(オマージュではなく)になっていると思った。しかもかなり見事な。それは、オープニングあけの最初のカットが、オリジナル版で奥菜恵山崎裕太が決して乗ることのなかった(故に、画面に映らなかった)電車の車両が映っているカットだというところからも分かる。『モテキ』の森山も満島も、『打ち上げ花火…』の奥菜恵に置いてきぼりにされた人たちなんだな、と。「オマージュではなく批評」と書いたけど、おいてきぼりにされた人のその後から振り返る、批評的オマージュ、とも言えるのか。
(というか、改めて観ても『モテキ』面白い。)
これを観ると、リメイク版『打ち上げ花火…』の脚本を大根仁が書くことになったということにすごく納得がいく。きっと、『打ち上げ花火…』を2017年にアニメとしてリメイクする際に考えられる様々な問題は、理知的にきちんと処理されているのだろうな、と。もともと、ベタベタの感傷の人でもないだろうし。そのことと、面白いかどうかは、別問題だと思うけど。
(オリジナル版『打ち上げ花火…』を観てひっかかった点の一つに、小学生の男の子たちによる集団のホモソーシャル性があまりに素朴に肯定的に描かれているようにみえたということがある。男の子たちの集団がホモソーシャル的なのは、昔も今もきっと変わらないだろうから、そのようなものとして男の子集団を描くのは別に問題ないと思うけど、そこに何かしらの批評性がひとかけらもないというのは、93年にはOKだったかもしれないけど、現時点では---あくまで一般的倫理コードとしてだけど---駄目なのではないかという感じがあった。例えば、既に『聲の形』のような作品も存在するのだし、今観るとちょっときついな、と。でも、大根仁だったら、そういうところもちゃんと意識的なのではないか、と。)
まあ、アニメ版まだ観てないし、公開中に観られるかどうかも分からないけど。