●DVDで『コクリコ坂から』を観はじめたのだが、これがぼくには耐えられなくて四十分くらいのところで再生を止めてしまった。最初の朝食の場面はとても丁寧につくってあったし、坂道や上下運動の自然な導入もまあまあ良い感じで(空間的な感覚としては、面白いんじゃないかと思った)、あっ、これは意外にいけるのかなと思ったのだけど、その後、舞台が学校に移ってからのぬるいノスタルジーは耐え難く醜悪だと思った。カルチェラタンの内部の描写や集会の場面などもひどいと思った。
アパート(?)の住人の女性たちや風物の描写におけるノスタルジーはまあいいとしても、学校の男性たちの描写のノスタルジーの醜悪さ(ホモソーシャルな空気)はぼくにはちょっと耐えられない。この「やんちゃする男の子たち」をぼくは受け入れられない。いや、ここに出てくる「男の子たち」を受け入れられないというより、「カルチェラタン闘争」みたいなものをこういう形でノスタルジー化するという「手つき」を受け入れられない。
それに、宮崎駿が、こういう種類のノスタルジーをもつのは(それを受け入れられるかどうかはともかく)理解できないことはないけど(これは宮崎駿にとっての「ビューティフル・ドリーマー」のように思われる)、なぜそれに息子が付き合わなくちゃいけないのかがよく分からない(いやもちろん、「大人の事情」はわからないではないし、宮崎吾朗は大変なんだろうなあとかいうのはわかるのだけど…)。醜悪に感じられるのはだから、「ここ」に宮崎吾朗にとってのリアリティがないからだと思う(これは宮崎吾朗の「自己表現」という意味ではなく、作家としての宮崎吾朗が獲得すべき「リアリティとの接点」のあり様のこと)。父のノスタルジーは父自身が語ればいいのであって、宮崎吾朗はそれとは別に自分のやりたいこと(というか、やれること)を探さないのならば、わざわざ作品をつくる(ぼくの方でも、それをわざわざ観る)理由がないと感じられた。