●『贖罪』(黒沢清)の二話から四話をDVDで(最終話はまだ観ていない)。うーんと唸ってしまった。これはどう考えたらよいのだろうか。
演出家として、あるいは映画作家としての黒沢清のすごさが遺憾なく発揮されている。黒沢清はほんとにすげえなあと思う。それに、一話目から、それぞれの話で主演している蒼井優小池栄子安藤サクラ池脇千鶴という女優たちの演技もすばらしいと思う。それぞれの役柄に応じて演じ分けられているというより、それぞれの人の、基本的な「俳優としてのあり様」の違いがはっきり見えてくるというような演技になっているのも面白い。これを引き出しているのも黒沢清の力なのだろう。それに、この話は小学生時代に共通した事件に巻き込まれた四人の女の子の十五年後の話で、その小学生時代のパートに出てくる女の子たちの撮り方もすごくて、黒沢清ってこういうことも出来るのか(子供を撮るのもこんなに上手いのか)と驚かされる。
でも、なんでこんなにすごいことが成立しているのに、その元になっている「お話」がこんなに下らないのか、というところにどうしても引っかかってしまう。こんなにすごい描写や演出や演技が、なぜこんなに下らない物語に奉仕するようなかたちになっているのか、かみ合っていないのではないか、というところが納得できないのだ。
とりあえず、「物語など方便に過ぎない」と考える事もできるかもしれない。確かに、その物語が、どうでもいい、つまらない、とるに足らない、凡庸な、物語だとすれは、すくなくとも、映画としてすごいことが成立しているということの邪魔にはならないかもしれない。凡庸な話が描写の力によってまったく凡庸ではなくなるかもしれない。しかしこの物語は、たんにつまらないのではなく、「下らない」としかぼくには思えない。そのくだらなさを、例えば「描写」が救うとしたら、そこにどんな意味が発生してしまうのか(「下らなさ」を「救う」ことは良いことなのか)。
黒沢清が、積極的にやりたいと自ら働きかけたわけではないお仕着せの企画の映画を数多く製作するなかから、その条件を逆手に取るようにして、自らの作風も地位も確立してきた監督であることは、勿論知っている。チープな企画や困難な条件を結果として利点となるように逆転させてきた。しかしそれでも、企画としてここまではOKだけと、そこまで行くとNGという受け入れ可能な基準点は当然あるはずで、ぼくのイメージからするとこのお話はNGなのじゃないかと思う。勿論、ぼくは黒沢清ではないし、黒沢清がOKと判断したからこそこの映画が出来上がっているわけだけから(そもそも黒沢清自身が脚本を書いているのだし)、それはぼくの勝手な思い込みなのだが、しかしだからこそ、そこのところでぼくはどうしても納得できないということなのだと思う。
●でも、もしこれがたんにつまらない作品だとしたら、別に悩むこともなくなる。下らない話を映画にするから、結果はやっぱダメじゃん、ということで済む(自分としては納得する)。しかしこれはすごく立派に出来ている。個々の場面ではいちいちため息がでるくらいに。真正面からの「女優の映画」として、黒沢清の新境地を示しているとさえ言えるかもしれない。だからこそ、こんなにに下らない話を、こんなに立派な作品にしてしまってよいのだろうか、下らない話を立派なものにしてしまうというのはどういうことなのだろうか、という変な疑問になって、混乱してしまう。
●ああ、そうか。ぼくは、黒沢清が「湊かなえの人気」に乗っかってしまっていいのか、というところに引っかかっているのかもしれない。人気作家やベストセラーに「乗っかる」のがダメだと言っているのではない。乗っかれる(映画をつくるために利用できる)ものになら、どんどん乗っかればいいと思う。ただその時、「これ」になら乗っかれるけど、「こっち」には乗っかれないという判断が当然あるはずで、そこで「湊かなえの人気」に乗っかるということは、「湊かなえ的物語」を肯定するということになってしまうのだけど、それは映画作家としての黒沢清のあり様と本当に両立できているのか、という点に納得できていないのかもしれない。
●いや、でもその前に、ぼくはなぜ、このお話をこんなにも下らないと感じるのかと言うところから考える必要があるのかもしれない。ある偶発的な出来事によって「呪い」がかけられると、その人物はいやおうもなく「運命」の作動にまきこまれ、どんどん「怪物化」してゆく、という話のバリエーションであるとこの物語を解釈するならば、それは今まで黒沢清が繰り返し語りつづけてきた話とかわらないとも言える。ただ異なるのは、運命が「罪」として与えられ、怪物化の過程が、罪の償いの過程として形作られているということころだ。「罪-贖罪」という装置が、彼女たちの怪物への変身を外側から拘束している。以前の黒沢清の描く運命-怪物化は善悪の彼岸にあり、それ自体を肯定することも否定することも出来ない絶対的な出来事(別の何かと比較することの出来ない絶対的変身、楳図かずおの「半漁人」的な…)だと言える。それらを基準にして考えれば、彼女たちは皆、怪物化に失敗している。怪物化が重力に負けている。四話の池脇千鶴の話だけが、このパターンとは違っていて、罪-贖罪という把捉装置(これは、「謎-解決」という装置に似ている)からのがれられている。それは彼女においては事件そのものよりも、姉との関係の方がつよい「呪い」としてあるからだろう。しかしそうだとしても、それは姉との関係に強く拘束されているということで、怪物への絶対的な変身というところには至っていない。
こう考えるならば、黒沢清は意図的に「下らない話」を、つまり、怪物化の失敗例というか、怪物化の零落した形態を描こうとしているのかもしれない。現代においては、人は怪物化することが困難である、というような。もしそうだとすれば、最終話での小泉今日子がどうなっているのかが、つまり、複数の零落形を乗り越えてどのような「怪物化」が実現しているのかが、重要だということになる。あるいは、怪物化の拒否ということも考えられるけど。