●『贖罪』(黒沢清)五話をDVDで。これはすごい傑作で、一話から四話まで観ながら感じていたもやもや(おとといの日記参照)は吹き飛び、圧倒された。少なくとも「観ている」時間のなかでは。
お話としてはこれまでの四話と同様に、というかこれまで以上に下らない。それまで15年以上の警察の捜索でも捕まらなかった犯人の「声」がいきなりラジオから聞こえてくるとか、伏線で匂わされることすらなくいきなり過去の三角関係と友人の自殺の話が出てくるとか、被害者と犯人との接点(犯行動機の発生)が考えられないような偶然だったりとか、それが通るのだったらなんでも通ることになってしまうというような強引なつじつま合わせで(つじつま合わせは強引だが個々の細部は凡庸だ)、こんな話になぜ真面目に付き合わなくてはいけないのかというバカバカしい気持ちになる。これらの突飛な出来事の連鎖が、ある飛躍として与えられるのならば面白いということもあるのだけど(例えば、小泉今日子には殺された子供とは別にもう一人の子供---事件の後に生まれた---がいることが、確か三話で、何気ない描写のなかで唐突に知らされるのだが、このような唐突な描写による驚き---子供の出現---は作品を活気づける力となっている、というようなこともある、だが)、これらのほとんどは、強引なつじつま合わせであり、説得力のない説明であり、つまり「信用ならない見苦しい言い訳」でしかない。
でも、こういったことは、作品を観終わった後に、どんな話だったのかをもう一度頭のなかで整理しようとする時に出てくるもので、実際に観ている時はこのようなことが問題になったり、それを疑問に感じたりすることはない。それは、この映画作品がもつ説得力の源泉と、この物語が採用するつじつま合わせ(言い訳)がほとんど関係ないからだと思う。確かに、登場人物は物語に従って行動しているし、場面の連鎖も物語の因果関係に従って配置されている。いや、そうではないか。この映画は、そして登場人物たちは「物語」になど一切従っていない。物語が示す辻褄合わせとは一切関係のない別のリアリティの原理によって動き、形作られ、配置されている。だが、それが結果としてたまたま、この面白くもなんともない物語として読むことも可能であるような配置と一致し、一部で、世界を共有している部分があるということに過ぎない。
この映画は一方で、この下らない物語を過不足なく語っているが、しかしもう一方で、この映画はこの物語(言い訳やつじつま合わせ)とはほとんど関係がない。物語を批判(批評)したり、物語を脱臼させ宙づりにしたり、「何を語るか」に対して「どう語るか」を優先させたりするというのではなく、映画は、過不足なく、誰が観ても分かるように物語と一致していながらも、物語そのものとはほとんど関係なく、物語には何一つ頼っていない別の強さ、別の原理、別のリアリティとの接点、によって立ち上がり、作動し、成立している。映画と物語(言い訳)とはぴったりと重なって見えながらも、その距離は無限のように遠い。 このようなすごいことが、この映画では起こっているのだと思う。
おそらく、一話から四話まででは、まだそこまでは行き切っていなかったから、黒沢清が湊かなえにどこかで日和っているかのような引っ掛かりを感じてしまったのだと思うのだが、五話では、黒沢清は湊かなえを完全に呑みこんだ上で、それとはまったく別の次元へと飛翔している。
この作品で黒沢清はまたあたらしいステージに突入したように思われる。黒沢清は、あきらかに「物語を語る」作家ではないのに、今まではどこかで「物語に対する遠慮(物語を振り切り切れない感じ、というか)」のようなものが働いていて、それが弱さとなって出ていたり、破綻のようにみえたりすることがあったように思う(逆に、そのことによって生まれる歪みや屈曲が魅力であったりもするのだが)。でも、この作品ではそれを完全に突き抜けていて(物語と一体化し、かつ、ほぼ無視する)、より濁りのないシンプルで明快な次元に達してるように感じた。
八十年代からずっと黒沢清を観つづけていて、何度か、「あっ、変わった(突き抜けた)」と思った瞬間があった。例えば、『勝手にしやがれ 英雄計画』の後半で、何の前触れもなくいきなりとんでもない長回しのカットがあらわれた時など。その時に感じた、いてもたってもいられないような、ぞわぞわっとする感じと同様のものを、この映画からも感じた。