●確認もせずにバス停で来たバスに乗ったら、いつも乗るのとは全然違う経路を走るバスだった。今は、子供のころから慣れ親しんだ土地に住んでいるのだが、このバス停にこんな経路のバスが通っていたことを知らなかった(新しくできたのかもしれない)。最終的な行き先は同じだけど、ぐるぐると迂回して、最短距離の経路の三倍くらいの時間をかけて目的地に着く。時間に余裕をもって出たのであせることもなく、乗り間違えはむしろ幸運だった。いちいち、あっ、こんなところを通るのかという驚きがある。よく知った道でも、細い路地を、バスのでかい図体と高い視点で通ると新鮮に見える。夏の名残りの強くてベタな光が射している。信号で停まった交差点の歩道の隅に、他と比べて一本だけ異様に背が高く伸びた草が生えている。三百六十度窓が切られているバスのなかには光が複雑に入り込んでキラキラしている。子供の時には、中年になっても強い光が射しているというだけで子供のころと何もかわらない感じで気持ちが高揚するものだなどとは思ってもいなかった。
山下澄人さんの芥川賞残念会を山下公園で。そごうを突っ切ったところにあるシーバス乗り場で集合し、シーバスで山下公園まで行き、平日の昼間から大勢の大人がシートを敷いて飲み食いする。一行が到着するよりも先にすぐ近くの木陰で一人すやすや眠っていたおっさんは、集団が近くに陣取り、飲み食いし騒ぎはじめても、動じることも、嫌な顔をすることもなく、そのまま堂々と、気持ちよさそうに眠りつづけ、辺りがうす暗くなったころに起きだしてどこかへ帰って行った。
●帰りは突然の雨。
●『贖罪』(黒沢清)についてもうちょっと。おそらくこの作品で黒沢清ははじめて「俗な物語」を受け入れた。たとえば「三角関係」や「嫉妬」といったウェットな感情が物語の中心的な役割を果たすことはいままでなかった。あるいは、人間が怪物化することはあっても怪物が人間化する(怪物の「因果」が人間的原理によって説明される)ことはなかった。それらの要素を完全に排除することは出来なくても、周到に物語の核心部からは外されていた。
だが『贖罪』では、たとえば小泉今日子は最初、子供たちに呪いをかける怪物的存在であり、その呪いが決して解かれることがないものであることを子供たちに示すために回帰する死神のような存在として描かれていた。それが次第に話が進むなかで人間的な存在へと変化し、とうとう最終話では完全に「迷い」をもつ「人間」となる(これはいわゆる黒沢的物語---たとえば『キュア』に代表される---と逆向きの進行である)。これは物語上のことだけでなく、小泉今日子の「撮り方」の違いとしてはっきりあらわれている。そして最終話では「呪い」がもとをただせば実は彼女の「人間的事情」であったことが明かされる。つまり、「呪い」が(わかりやすい)「因果関係」に還元される。そして彼女は、「運命」の作動しない、どうしたらよいのかさっぱりわからない「迷い」のただなかに放り出される。
呪いが因果関係(人間的な事情)によって説明される。これは、今までの黒沢清が最も嫌っていた事柄ではないか。呪いとは「世界の法則」であって「人間の事情」ではない、と。だが、ここでの黒沢清の野心は、いままでとは逆のことをやる、ということではないだろうか。これははっきりとホラー(運命)からミステリ(因果関係)への転身であろう。『贖罪』の最終話ではもはや「怪物」はどこにも存在せず、ただ(心理や因果によって説明される)人間たちの相互作用だけが存在する。
「呪い」が「因果関係」に還元される時、物語には「過去の秘密」「三角関係」「嫉妬」「裏切り」といった生臭い「心理」的な要素が浮上する。しかし黒沢清は、物語の機能の心理的側面は受け入れながらも、作品の機能としての心理そのものは排除しようとしているようにみえる。だからここで問題は心理ではない。
つまり『贖罪』で問題とされているのは、運命や呪いを失った人間であろう。「なぜ(他の誰かではなく)わたしの子供が殺されるのか」という理不尽(偶発=運命)が、「(他の誰かではなく)わたしの子供である理由があった」という因果関係(説明)によって解消されてしまう時、どうなるのか。運命に縛られた人間には自由がないが、「〜せねばならない(するしかない)」という形での悲壮なアイデンティティ(使命)は与えられる。しかし呪いが因果によって解消される時、そのアイデンティティも解消されてしまう。15年間、縛るという形で彼女を支えていた「落とし前をつけようとする意思」は何の意味もなくなってしまう。呪いが因果関係の束に解消される時、人間としての彼女自身(主体性)は、世界の因果関係の束から外されてしまう。何をしたらよいのかわからず、何をしても意味がないという位置に置かれる。
もはや怪物は存在しない。このことによってあらわれる「自由(たとえば「俗な物語」を受け入れ得る自由)」が、黒沢清の映画に新たな何かを生むような予感がある。