●昨日、「恐怖」と「怪奇」の違いについて書いたので、改めて久々に『リング』を観直してみた。『ラビット・ホラー』と並べてみると、恐怖と怪奇の違いが感触としてよく分かる。とはいえ、ぼくには『リング』はまったく怖くはないので、恐怖という概念ということだけど。
『リング』では、霊能者である真田広之が数学者であるところが特徴的だと思う。高橋洋的な「呪い」は、おそらく数学的な真理のような強さをもつ。だからそれは、この世の目に見えるものたちがつくる因果律よりも強く、人間による介入や努力によって揺らぐことがない(高橋洋が脚本を書いた黒沢清の『蛇の道』でも主人公の哀川翔は数学教室のようなものをやっている)。高橋洋にとって「あの世」とは、数学によって表現されるプラトン的世界のようなものなのではないか。『リング』は、呪いのビデオを分析することで、呪いの根源に遡行し、その根源を断つことで呪いをキャンセルしようとするというミステリ的な物語をもつ。しかし貞子の呪いは、貞子を慰霊し成仏させるといった人間的な行為によって消滅させることができるものではない。呪いは数学的真のような意味で真理であり、人間世界にあらわれる物語はそれを十分には表現していないから、根源に遡行することは出来ない。それは人間がコミュニケーションできる領域にはない(呪いの根源は「この世」にはない)。そのような呪いが、人間、人間的関係、あるいは人間的な努力、思い、あがきに対する絶対的な自己否定としてあらわれる。
うろ憶えだが、たしか『リング2』で貞子の呪いを浄化するのはマッドサイエンティスト(科学者)で、呪いは大量の「水」に吸収されることで浄化するのだったと思う。
『リング』では、もう一方で、貞子への恐怖がそのまま「海への恐怖」へと重ねられている。貞子の母は、いつも海と会話しているようだった。つまり、貞子の「父」は海そのものではないかという感触がもたれている(貞子はポニョだった !)。貞子の力の源泉は直接海から来ていて、その呪いは、台風で荒れる海と同等に強力であり、呪いを消失させるということは、海を消失させるのと同じくらい困難である。しかしここには、少なくとも数学的な真よりは介入可能な糸口がみえる。呪いが海から来るのならば、それは海へ返すしかない。呪いは消えるのではなく、再びその力の源泉へと吸収される(『リング2』において)。
だが、後者は、作品をエンターテイメントとして成立させるためのぎりぎりの妥協であるように思える。少なくとも、脚本の高橋洋にとっては、「呪い」は、感覚不可能性を感じさせる感覚としての海(美学的崇高)であるより、この世の外(前?)にある数学的な真であり、その作用は、より大きな力(というイメージ)に吸収されることはないという感じなのではないか。例えば、『恐怖』でマッドサイエンティストが求めている「霊的進化」とは、人間が人間という形である以上けっして見ることのできない(「あの世」ではない)「この世の外」に触れるためのものであり、「呪い」とはそのような外の場所で作動している何かとして捉えられていると思う。
●対して、清水崇的な世界では、個人の記憶、関係の記憶、場所の記憶、記憶が保存される媒体(媒体の記憶)といった、「この世の出来事」が始点にあるように感じられる。数学的真のようなこの世の手前にある「呪い」が、この世での人と人の関係を残酷に切断するというより、「この世」で起こった関係の固着や、関係の切断の記憶こそが「呪い」を生む感じ。それは、この世に受肉した具体的人物という場(媒介)によって集約された、偶発性を孕んだ出来事の構成物であるように思う。呪いとは、固着化してしまった出来事のネットワークか、あるいは、予想外に開いてしまったネットワークのショートカットのようなものではないか。
『リング』で、過去に入り込んだ松嶋奈々子の手に貞子が触れる感じは、まさに恐怖であり、コミュニケーション不可能なもの(力)に直接的に触れてしまう感覚だが、清水崇の作品で、本来触れ合うはずもない断絶した者たちが接点をもつ時、そこで起こっているのはコミュニケーションであるように感じられる。それが悲劇的な結果を生むコミュニケーションであったとしても。
●では、高橋洋の世界と清水崇の世界は相容れないのだろうか。しかし、昨日も書いたけど、ぼくは『ラビット・ホラー』を観ている間じゅう、そこに『発狂する唇』や『血を吸う宇宙』が重なって見えている気がしていた。真逆の地点から出発したものが共振する領域があるように感じられる。