●先週の「20世紀末の美術」というイベントで中村ケンゴさんが、日本でも今後は階級が可視化されてくるので、そうなると世代論が通用しなくなる、というようなことを言っていて、この話はそのまま、永瀬恭一さんと眞島竜男さんの間でイベントの最後にちらっと出た、複数のレイヤー(階級と言い換えうる)を統合するのはナショナリズムなのではないか、という話とつながるように思う。つまり、階級の可視化によって世代論の時代からナショナリズムの時代になる、ということになるのではないか(そういう話が四人の間でなされたということではなく、二つの別の発言からぼくが勝手にそう考えたということ)。思考実験的にナショナリズムの可能性ということをちょっと考えてみたい。
http://www.nakamurakengo.com/sympo/
だだ、複数のレイヤーが(想像的な共同性によって?)一つの平面に統合されるポロック的(というか、モダンな)ナショナリズムではなく、複数のレイヤーが複数の平面によって分散的かつ流動的に統合されるということになると面白いのではないか(ポロック晩年のブラック・ボーリングの絵画はその萌芽のモデルとして観ることも出来る気がする)。それぞれの統合平面も、並立的にあるのではなく、複雑に交錯し絡み合っているみたいな感じで。複数的かつ流動的なナショナリズムということが考えられると面白いのではないか。可塑性のあるトーテミズムみたいなイメージ。
(関係ないけど、ポロックにおけるトーテミズムの重要性を今回の展覧会ですごく感じた。ポロックは思ってたより全然「モダン」な画家ではなかった、みたいな。)
複数の階級に、それぞれの天皇がいるというのでは、たんなる代表制でしかないけど、複数の階級と複数の天皇が交差的にあるというようなことは考えられないだろうか。多(階層)=多(統合)ではなく、多(階層)×多(統合)みたいに交差、錯綜するみたいな。ここで「天皇」とは、文化的な古層や深層への通路となるような象徴性(一定の求心性)をそなえ、人(の心)を集める媒介となり得る人やモノというくらいの意味で考える。多×多が可能となると、全体は錯綜していて誰にも把握できないけど、ローカルな場面ではそれなりに統合平面が成り立っているみたいな感じになるのではないか。絵画的な比喩で言えば、複数のバックグラウンド(統合原理)がひとつのフレームに仮どめ的に重ねあわされている感じ。
この話は、この前の中沢新一読書会で柄沢祐輔さんが言っていた、ガバナンスとソブリンを区別する必要があるという話と繋がるのではないか。生権力やインフラ整備を扱うガバナンス(統治)の部分は、国家やグローバルな多国籍企業にまかせてしまって、それとは別の、文化的、象徴的な次元(精神的な古層)での政治性としてのソブリンを「その上にのせる」というイメージを構想できるのではないか、という話。これは『熊から王へ』の文脈では、世俗的な長としての首長と超越性に関わるシャーマンとの分離にも対応する。そしてここで、複数の天皇というヴィジョンが可能になったりしないかなあ、と。
http://www.ustream.tv/recorded/20500203
(以下は、柄沢さんの発言の正確な再現ではなく、それを聞いてぼくが勝手に考えたこと。柄沢さんの話(と清水高志さんとのやり取りなど)、ちゃんとしたやつは上記のust録画で確認できます。)
この時、複数の天皇が、複数の階級を分割的に統合するのでなく、それぞれが次元の異なる別の統合の原理を持っていて、つまり、「ある個人」が、それぞれ異なる組み合わせで、複数の天皇を信仰する、みたいな感じ。天皇A、B、C、D、E、Fが存在する時、ある人は、天皇A、C、Fを信仰し、別の人は、天皇B、C、Eを信仰し、また別の人は、天皇B、C、Dを信仰するというような。組み合わせ自由的な多神教。この「組み合わせ」の幅や深さにこそ「個」が宿るみたいな(ちょっとガブリエル・タルド的な個のイメージ)。そうすれば、天皇Aを信仰するBさんと、天皇Cを信仰するDさんが対立するということ(これが党派的な政治で、天皇のかわりに「党」や「理念」や「マニフェスト」を代入しても同じだと思う)とはかなり違ってくるんじゃないか。Bさんが天皇Aのみを信仰することになると、天皇は「わたし」のアイデンティティと不可分な想像(鏡像)的な対象となってしまい、そうなると、天皇Aを信仰しないDさんと、精神的に相容れない敵対関係になるしかなくなる(敵か味方か、という単調な話になってしまう)。さらに、同じ天皇を信仰する別の人との間にも、想像的競合関係(ライバル関係)が生じてしまう。誰が最も天皇を愛し、天皇に愛されているのかという競争が生じる。実は敵との争いよりむしろこっちの方がずっと始末か悪いと思う。何が最も忠実であり、何が最も正統であり、何が最も純粋であるかという戦いは、近親憎悪的で偏狭な縄張り争いみたいな醜い争いと化しやすい。おそらく閉鎖的カルトの最もヤバイところもここにある。そうではなく、天皇A、C、Fを信仰する人と、天皇B、C、Eを信仰する人との間であれば、敵対関係とも競争関係とも違う、部分的には対立しつつ「C」という「同じ魂」をもつ者としての精神的な交流が可能になる、のではないか、という希望。
複数の天皇によって、多重化されたトライバリズムのような状態が可能になるのではないか。ここで最も重要なのは「多重化」されていることと、そこにある程度の流動性があることだろう。一に集約されて固定化されたトライバリズムとかは息苦しいので勘弁してほしいから(みんなが「都会」に憧れるのもそういうことだと思う)。多重化されたトライバリズムは、閉じた、安定性のある領域(「魂」と言ってもいいかも)の維持を可能にするとともに、その構成要素である個が複数のトライブをまたいでいること(個という媒介において複数のトライブが接続されていること)によって、個々のトライブに一定の閉鎖性が保障されたまま、トライブ間の間接的交流と流動性も実現される、とかならないかなあ、と。例えば、貧乏人ばかりのトライブや金持ちだけのトライブがある一方、「別の原理」によって双方入り混じったトライブもある、という風に。そして、複数のトライブに横断的に属すること(つまり、複数の「魂」を身に宿すこと)が、それぞれの「個」の幅や深みを、独自性をかたちづくる、とかなればいいのになあ、と。
●これは、オタク的イメージ=アンチ・ポップ(アンチ・モダン)という(四日前)の話ともつながっている。つまり、モダンな、スタンドアローンとしての自律的な主体性とも違っていて、しかし、ポストモダンな、フラットで環境に直に左右される的な主体性とも違った、もっと彫りの深い、別の「個」の形を考えられないかなあという文化的、芸術的な問題でもある。政治的な、文化・芸術活動なのではなく、文化・芸術活動として捉えなおされる政治(人と人との関係をかたちづくるもの)。魂のつながりとしての文化=政治、とかいうとかなりナショナリズムっぽい感じになる。しかしそれは、ズレを含みつつ多重化されてないととても「怖いこと」になると思うけど。わたしとあなたとは、常に部分的には対立し(切断され)つつ、部分的に交感が成立している、と。そういうわたしとあなたの関係が、多層的にズレながら次々と重なってゆく、と。