⚫︎「バックビートおじさん」の動画を初めて観たのはもう二、三年前のことだったと思うが、その時は何を問題にしているのかさえつかめなかったが、ずっと気にはなっていて、最近になってようやく、「リズムの重心」という言い方で何を言おうとしているのかは、なんとなく分かりかけてきたように思う。とはいえ、この感覚は、何度も動画にかえって確認し直さないと、すぐにわからなくなってしまうのだが。
もっとも簡単かつ間違いのない手拍子の練習方法。3 - YouTube
おそらく、バックビートおじさんのフォロアーの一人だと思われる山北さんというドラマーの動画がわかりやすい(こっちの動画を最初に観る方がわかりやすいかも)。
【ドラム練習】ドリカム「決戦は金曜日」とEW&F「Let's Groove」のリズムを叩き比べてみた #リズムの重心 - YouTube
バンドの音が変わる!ドラマー以外にも知ってほしい「リズムの重心」の話【低音再生推奨】(テロップ訂正あり。字幕オンでお願いします!)#リズムの重心 - YouTube
二人の対談、バックビートおじさんの来歴など。
【特別対談】日米のリズムの違いと洋楽のリズムの学び方(ゲスト:松村敬史さん) - YouTube
バックビートとは「裏拍」のことではなく「I get your back」のバック、つまり「背中」のことだ、と。
⚫︎バックビートおじさんは、「頭重心」の音楽を否定しているのではなく、リズムを「頭重心」に残したままでなされる半端な「ブラックミュージック風」の音楽(それがJ-Popだ、と)が、気持ち悪いと言っているのだと思われる(ぼくも、日本の「ニセモノ近代絵画」については思うところがあるので、その感覚は、類比的にならば分かるように思う)。
これは、なぜK-popはアメリカの大衆的マーケットで受け入れられるのに、J-popは受け入れられられないかの、わかりやすい理由の一つであるように思う。実際、バックビートを理解(体得)していた坂本九はアメリカのマーケットに受け入れられた。
そしてそれは逆から見れば「アメリカ」の特殊さであり、アメリカの音楽マーケットの頑なさの表現でもあり、音楽の持つ排他性の表現でもあると思う。音楽(と、笑い)には、人と人とを「隔てる」機能もある。人類学で言われる「隣の部族とは歌の音階が異なる」ことと「バックビートがわからないやつは嗤われる」ことは繋がっているだろう。音楽はトライバリズムの表現でもあり、まず他者との差異のわかりやすい徴しづけだった。他者は「変」に見えるが、なぜ「変」なのかはなかなか言語化できない(「ダサい」としかいえない)。「この感覚」が分かっている奴が仲間であり、その「感覚」の条件はルールベースでは書き下せない。ただ「分かっている」とされる人から「それ、それ」と認められることで知らされるしかない。バックビートおじさんは、その「外の人」には伝えづらい「この感覚」というのを、なんとかして伝えようとしているように見える。つまり、「感覚」をトライバリズム的文脈から切り離そうとしている、ようにみえる。
(「感覚」に関するぼくの経験。大学生の時にセザンヌの絵の「見方」がふっと分かった瞬間があって、その瞬間から、それまで色も汚くて形も歪んだダサい絵にしか見えていなかったセザンヌの絵の見え方が全く変わってしまって、え、え、え、何々、こういうことだったの、えーっ、と思いながら興奮して画集のページを次々とめくったという記憶がある。でも、その「見方」は体得するしかなくて言語化して伝えることはとても困難だ。)
⚫︎ただ、この「この感覚」が、生きた現場(本場)において同調/排除の選別装置としてリアルタイムにガチで機能している時、「感覚」がそのまま「政治」的な機能となってしまっている。それこそがまさに生きられたトライバリズムなのだろうが、そこまでならばともかく、さらにそれが、「この感覚」=本場=本物という結びつきとして本質主義化する時(つまり、「ある感覚」が、オリジナルな場所、オリジナルな起源=真性な系統という根拠と結びつき、それらの三位一体によってその真性(本物)性が保証され、その芯に普遍的な本質が想定されるようになる時)、政治的にとてもヤバイものに変質してししまう。これが、感覚主義的なトライバリズムから本質主義的なナショナリズムへの道なのではないか。だからここで、そうならないためにも一つ一つの「この感覚」に「自律性」が確保されないといけないと、ぼくは考える。「この感覚=美」の自律性は、本質主義や普遍主義を避けるためにこそ必要なのではないかと思う。
(感覚=美は、状況や政治からだけでなく、本質や普遍からも自律する必要がある。というか、している。それを示すのに必要なのがフォーマリズムだ、と考える。)
(例えばグリーンバーグは、「マネから(いつまで続くかわからない)現在」という限定された期間においてのみ、絵画が「平面的」であることが必然性を持つとする。というかそれはもう過去だから「した」だが。つまり、「(現在ではすでに過去である)現在」ではそれが必然だが、どんな過去、どんな未来においても普遍的にそうであるわけではないと言う。美は、必然的であるが、相対的でもある。だがここで「マネから現在まで」という時代区分は何に依っているのか。時代状況に根拠があるわけでもなく、普遍的な規則に依るわけでもない、この恣意的にも見える「時代区分」は、他ならぬ「美のモードの変化」それ自体に依るのだ、という意味で自律的である、とするのはどうだろうか。これはグリーンバーグではなくぼくの考えだが。)
(ここで自律的であるというのは、他とまったく無関係に独立してあるということではない。あらゆる物事は相互作用し合う。しかし、グレアム・ハーマンがオブジェクトについて言うような意味において、上方解体(全体論的な関係への埋没)によっても、下方解体(還元主義的な部分への解体)によっても、解消され尽くせない固有性=自律性があるということだ。あるいは、美は、常に真や善との深い関わりのなかにあるが、しかし、真や善によって解消・代替されはしない、というような。)