●お知らせ。『魂と体、脳』を書いた西川アサキさんと、イベントでトークすることになりました。西川さんの高校時代から友人であるという映像作家の金子遊さんが司会をしてくださいます。
日時は、4月14日(土)の12時から14時(13時から15時に変更されました)。場所は、吉祥寺の「百年」です。
http://www.100hyakunen.com/events/talk/20120312682.html
●フィリップ・デスコラ(デスコーラ)、エドゥアルド・ヴィヴェイロス=デ=カストロという名前が気になっている。前者はフランスの、後者はブラジルの人類学者。どちらも、日本語に翻訳されている本は一冊もない。ただ、去年出た「現代思想」にカストロの論文が一つ翻訳されているようだ(チェックしていない)。
ぼくは外国語がほぼ読めないので、両者に関する知識は間接的なものに限る。以下に引用するのは、桜美林大学の奥野克己という先生のブログの文章。
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno
●社会的現実は存在論的現実に従属している、こと。
《(デスコラ『自然の社会で(In the Society of Nature)』の)「一般的な序」の冒頭で述べられている、自然に関する見方は、後の『自然と社会』(1996)の問題意識を先取りしているように思える。その見方の一つ目は、?自然を社会のもう一つの生きた片割れとして見るものであり、そこでは、宇宙がそれに語らせる人びとの幻想的な声をつうじて物語を語る。もう一つの見方は、自然を人間行動の領域の外部で起きる一連の現象であると見るものであり、数式化に従属するような寡黙なフュシスだという。デスコーラは、その二つを同時に結び合わせることができるのが人類学者の特権であるというような言い方をした後で、面白いことを言う。前者、すなわち、所産的な自然観を有するのは、合理主義的な伝統に固執し続ける人であり、後者、すなわち、能産的な自然観を有するには、エキゾティックな思考体系のがまん強い学習者にならなければならないと。わたしたちは、忍耐強く、先住民社会の人たちの声に耳を傾けるならば、風や鳥が何かを語っている人びとが言うことが、じつは宇宙がそのことを言わせていることにほかならないと気づくようになるというのだ。なかなか面白い指摘である。この部分は、研究会の後半で取り上げられた、<存在論的遭遇>の議論ともリンクしているように思える。存在論を、可変的な<コレクティヴ>(=諸人格がある集合体につながれているあり方)の対象の理解の様式であると捉えるならば、忍耐強く観察すれば、その同定化の様式が、時と場所に応じて、ずれてゆくのである。しかし、それは、<存在論的遭遇>にはちがいないが、イデオロギーの「改宗」というような事態と似ていなくもない。<コレクティヴ>という概念は、<社会>という概念に代わって提起された、それに代わる新たな概念である。デスコーラが説くように、<社会>という概念は、邪魔だし、厄介なのかもしれない。大雑把に言うならば、ある<社会>の特性なるものが、不変的なものとして表象されるが、それは、学問が生み出した、その意味で、バイアスがかかった概念の可能性がある。社会的現実は存在論的現実に従属しているのだと、デスコーラはいう。また、加えて、ここでいう存在論は、つまり、デスコーラの存在論は、もう一人の論者ヴィヴェイロス・デ・カストロ存在論とどうちがうのだろうか、また、どの点で同じであるのか。そのあたりも気になり出してきた。とりあえず、荒っぽい個人的な覚書として。》
ここにある「コレクティブ」という概念は、以前ぼくがこの日記に書いた、複数の天皇による流動的で重複的なトライバリズムとも繋がるんじゃないだろうか。
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20120228
●魂と体、二つの存在論
文化人類学は、マリノフスキー以来この百年間、「現地人の観点から」というようなスローガンのもとにやってきたのではなかったのか?文化人類学者は、「異文化」を理解しようとしてきたのだけれども、しかしながら、その理解は、あくまでも、文化行動を人だけに割り当て、自然から切り離す西洋二元論思考に基づいたものであったことになる。だから、動物が人のようにふるまうことを普通のこととして捉える人びとや、神霊と仲良くする人たち、言いかえれば、人と人以外の存在を連続的なものとして捉える人びとのことを、根本のところからは捉え切れていないのである。そうしたことは、あくまでも世界に対する一つの理解、世界観という認識であると捉えられてきた。
エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロによれば、南米の先住民諸社会では、人であれ、動物や精霊などの人以外の諸存在であれ、それらは、つねに変化する身体を持ち、再帰的な観点をもつ主体であるとされる。そこでは、人も動物も精霊もすべて、自らを「人」であるとみなしており、動物や精霊たちもまた、人と同じように社会組織を持つと考えている。ヴィヴェイロス・デ・カストロは、南米先住民諸社会では、人と人以外の諸存在は、見かけが異なるという点で非連続的であるが、他方で、人間性をや社会性を共有するという点で、連続的であると主張する。
人と人以外の存在の間に断絶があるのではなく、人間性に関して、その関係が連続的なものであるとされるような存在論のあり方に照準を当てるために、ここでは、レヴィ=ストロースが、『構造人類学2』のなかで取り上げた、大アンティル諸島のエピソードを見てみよう。
大アンティル諸島では、アメリカ大陸発見から数年後に、スペイン人たちが原住民たちに魂があるかどうかを確かめるために調査団を送り込んだ一方で、原住民たちは、長期間の観察をつうじて、死体が腐敗するかどうかを確かめるために、(スペイン人の)囚人たちを溺れさせたのである。
異質な文化の遭遇の時代に、スペイン人とアメリカの原住民の双方が、互いをどういった存在であるのか知ろうと試みたのである。これを踏まえて、ヴィヴェイロス・デ・カストロは、他者存在に関する調査法が、スペイン人と大アンティル諸島の人びとでは全く逆になっていると指摘する。彼は、スペイン人にとっては、他者が「魂」を持っているかどうかが問題であり、他方で、原住民の目的は、他者がどのような「身体」を持っているのかを見出すことであったのだと言う。
大アンティル諸島の原住民たちは、動物や精霊が持っているのと同じように、ヨーロッパ人たちが魂を持っていることに一向に疑いを差し挟むことはなかった。原住民たちが知りたがったのは、そうした魂を持つ身体が、自分たちと同じ人間性を持つのかどうか、つまり、ヨーロッパ人たちは、人間の身体を持っているのか、あるいは、腐敗しにくい、変幻自在の霊の身体を持っているのか、一体どちらの身体を持っているのかを知ろうとしたのである。いいかえれば、大アンティル諸島の原住民たちにとって、ありとあらゆる存在が魂を持つことは周知の事実であり、形態上の身体のあり方こそが存在の違いであることになる。
このエピソードは、二つの存在論の激突を示している。》
●「アニミズム問答」として書かれたもの。先生「K−TM」と学生「片部杏」との掛け合い。ここで言われるアニミズムは、二人称的思考と繋がる気がする。
《K−TM:今日の認知考古学では、いまから6〜3万年前ほどに、宗教が出現したとする見方が優勢なんじゃ。ミズンによれば、現生人類の出現に先立つ約20万年の間、石器を用い、言語を操っていたとされるネアンデルタール人の脳では、社会領域、技術領域、博物領域などの脳内の諸領域が分化していた。そのため、彼らは、ありのままでしか物事を捉えることができなかった。「石」を見たなら見たなり、「木」を見たら見たなりのものとして理解することができたが、それ以上のことを行うことはなかった。ところが、現生人類の脳には、それぞれの領域を隔てる壁が崩れて、ニューロンが組み換えられた結果、それらをつなぐ新たな回路がつくられ、その回路をとおして、諸領域を横断する流動的知性が作動するようになった。そうした高次の知性の発達 によって、現生人類はいくつもの意味の領域を重ね合わせて、比喩や象徴を使えるようになったんじゃ。現生人類の脳は、さまざまな存在に対する知識を結び合わせて、「石」や「木」などの無生物にも、人間と同じように意思や意識のようなものがあると考えるようになっ。そのことは現生人類においてはじめて、目に見えない超自然的存在に対する敬意や畏怖が出現したことを示しておる。あくまでも仮説じゃがな。


片部 杏:ほう、人類の認知の進化のなかに宗教の起源があるってことですね。そうした認知進化の過程で生み出された観念と実践は、タイラーならば、人間以外の存在のなかに魂や霊を読み取る、アニミズムと呼んだ現象だということですね。


K−TM:そのとおり、わかってきたじゃないか。アニミズムは、現生人類が認知進化の過程で流動的知性を獲得した結果、目の前にある事物や事柄だけでなく、それとは別次元に存在する事物や事柄との関係のなかで、日常の現実を組み立てなおしたり、日々の問題を解決したりする手立てとして立ち現われたということじゃ。もしそうだとすれば、タイラーのアニミズム理解は、それでいいのじゃろうかということになる。


片部 杏:えっ、どういうことですか?


K−TM:南米の先住民のトーテミズムやアニミズムの調査研究からは、タイラー的なアニミズムとはずいぶん違うアニミズムが報告されておる、じゃ、このあたりの話からしていこうかな。


片部 杏:お願いします。


K−TM:ちょっと難しいが、デスコーラという南米のアシュアルを調査した人類学者は、身体性と内面性という概念を用いて、世界に関する情報を持たない状況下で、主体が自分自身とそのほかの存在との差異と類似を発見する仕組みについて考える思考実験をやったのじゃ。アニミズムというのは、彼に言わせると、動物や神、精霊やその他の無生物といった非人間的存在が、人間との間で、身体性は異なるが、内面性において類似しているという事態を意味している。つまり、デスコーラによれば、人間と非人間が、異なる身体性をもつが、類似する内面性を有することなのじゃ。


片部 杏:どういうこと?お化けと人間は、身体は違うけど、内面は同じだということ?たしかに、お化けは足がないし、人間は足がある。でも、感情の面では、お化けは人を羨んだり、復讐してやろうとする。ははん、そういうことで、アニミズムってのは、異なる身体性と類似する内面性か。デスコーラって、けっこうやるじゃん!


K−TM:南米のアラウェテ社会を調査研究したヴィヴェイロス・デ・カストロも、よく似たことを言ったんじゃ。動物、精霊、人間は、内面的・精神的には同じあるが(=連続的)、身体的・物質的には異なる(=非連続的)と、南米先住民は考えていると。この点を踏まえて、ヴィヴェイロス・デ・カストロおじさんは、南米先住民社会において、アニミズムは、非人間存在物に対して、人間の性質を投影する営みではなく、動物と人間が、それぞれが自らに対してもっている再帰的な関係が、論理的に等しいことを表現するものだという。わかるかな?


片部 杏:う〜ん、難しいな・・・


K−TM:カストロおじさんは、こうもいう。タイラー流のアニミズムでは、人間と人間以外の存在との断絶が前提とされて、両者がまず「きり」よく分けられた上で、人間のもつ特質としての精神や魂が非人間の上に投影されている。それに対して、アメリカ先住民のアニミズムでは、人間と非人間は、そもそも内面性において通じており、そうした相互の内面性の連続性こそが、アニミズムなんじゃと。その意味で、非人間存在物への人間の性質の投影という、タイラー流のアニミズム理解は、そこでは役に立たないことになるのじゃ。


片部 杏:なんかわかったような、わからないような・・・


K−TM:要は、タイラー流のアニミズム理解じゃ、アニミズムの本質は捉えきれてないのじゃないかという問題提起だな、これは。認知考古学がいうように、人間と無生物や動物の間に連続性を見出す知性のあり方が、現生人類の脳の組織の組み換えで生まれたのだとすれば、その知性は、人間と人間以外の存在を「きり」よく分けたうえで、自己の内に魂を想定し、それに引き続いて、人間以外の存在のなかに人間がもつ魂の存在を読み取るというような、順を追って得られたのではなくて、人間のなかに魂を見出す過程も非人間のなかに魂を見出す過程も同時に起こったのではないかということなのじゃ。逆にいえば、タイラー流のアニミズムは、人間と非人間を切り分けた上で、非人間のなかに人間様の魂や霊を読み取っているということになる。》
多文化主義に対する多自然主義。ラトゥールなどとの関連。
《Viveiros de Castro のCosmological Deixis という論文を、ほんとうに理解しているのかというのが出発点であった。再読であるが、以前本当に理解していたのかどうかきわめて怪しい。それだけ含蓄の深い論文である。途中までしか読み進むことができなかったが、大きくまとめるならば、相対主義とか普遍主義というような文化をめぐる議論は、西洋のある見方を踏まえて行われているというようなことが述べられている。それは、一つの自然があり、多くの文化があるという「多文化主義」の考え方である。アメリカ先住民は、これとはまったく逆に、文化は普遍的なものであり、自然が多様なかたちで現われるという(「多自然主義」)。西洋思考では、文化を一つ一つ区切って、その間の交渉が行われるというような事態が起きる。その上に、相対主義とか普遍主義というような議論がなされている。しかし、アメリカ先住民の世界では、そういったことはありえない。多自然主義者たちは、多様なかたちで存在する精霊や動物と交渉する。いわゆるコスミック・ポリティクスが行われるという。また、この論文を読んで、ヴィヴェイロス・デ・カストロが、それ以前に出たデスコーラの論文の「自然を対象化する三つの様式」を批判し、それに応じて、デスコーラが修正を加えて、「同定化の四つの様式」を提起したのではないかということも分かった。「存在論」に関してもわれわれは議論をした。それは、基本的に、実践を伴う。さらに、そのタームの使用には、より強烈なクリティシズムの匂いが嗅ぎ取れる。社会や社会的なるものが、西洋においてつくりだされた概念であり、わたしたちは、それを疑ってみることはないが、デスコーラの存在論の「同定化の四つの様式」は、社会という大きなくくりにおいては作動しない。その可変的なモデルは、コレクティブというより小さな集合において考えることができる。そういった意味で、存在論というタームは、既存の概念やそれを生み出した西洋思考に対する何らかの挑戦であるのかもしれない。荒っぽいが、備忘のために。》