●「わたしがいなかった街で」、最後まで読んだ。とても面白かった。柴崎友香は『ドリーマーズ』くらいからキレキレな感じなのだが、この作品で、そのキレキレ状態からまた新たな段階に突入した感じがする。それは新境地みたいなのとは違って、柴崎友香柴崎友香のまま一段と大きく、深く、自由になったという感じ(とはいえ、描写的傾向から語り的傾向への比重の変化は確かにある感じで、それが自由度が上がった原因の一つかもしれない)。「創造する」ということは、このようにして自分自身を越えてゆくことなのだということを見せられたみたいで、そういう意味でも感動した。
(「わたしがいなかった街で」をこれから読むつもりで、まだ読んでいない人は、ここから後の部分は読まない方がいいと思う。)
●最後で起こる、砂羽から夏へのバトンタッチみたいなことが、二つの一人称としてではなく、三人称多視点としてでもなく、砂羽の一人称の拡張のようにして夏が生まれ、砂羽の生活が進むなかで並行して夏が「育ってゆく」感じで小説が進行していった結果として起こる、ということはとても重要だと思った。だから夏の記述は三人称ではなくて、砂羽の一人称の拡張であり逸脱であり、そのすえでの分離だと考えるべきで、そう考えることで、この小説の内容と形式の絶妙な接点がみえてくる。
砂羽と夏が、それぞれの一人称、あるいは三人称で描かれてしまうと、この二人の「関係」を外側から操作している超越的な作家の操作性がみえてしまって、「離れているけど繋がっている二人の関係を描こうとしている作家が書いている小説」になってしまう。しかしこの小説はあくまで、砂羽=わたしの世界として提示されているので、夏はたんに砂羽による想像上の人物であるかもしれないというニュアンスが微かにだが常につきまとう。あえて単調な言い方をすると、多重人格の隠されたもう一人のような。
それは極端だとしても、夏は、間に中井を挟むことで、間接的に砂羽に知らされた情報によって砂羽の脳内に生まれた人物であるという登場の仕方をする。P34で、砂羽の一人称であるはずの文のなかに《中井には「クズイの妹」という呼ばれ方でいいと思っていた》という夏の内心ともとれる文が混じり込んでやや違和感がある。ただ、このブロックだけを読むならば、それは中井からの報告を事後的に砂羽がまとめて読者に報告している、という風に読める(「《「クズイの妹」でいいと思っていた》と夏が言っていた」と中井が言っていたのを砂羽は聞いた)。
この部分に先立って、p30には、電話で話す中井による一人称的視点が半ば生まれかけている(ここで「夏」の視点の発生が準備されているし、夏が《クズイの妹》として半中井視点で登場する)。これは中井の直接的な発話ではないがそれに準ずるもの(砂羽によって要約・再構成された中井の話)として砂羽の一人称と整合する。この程度の一人称の拡張はそれほど不自然ではない範囲だろう。
例えば砂羽は、夏の兄であるクズイには結局会えず、中井が携帯で撮った写真としてしか、現在のクズイを見ることができない。砂羽にとって(つまりこの小説にとって)当初、夏は、そのように間接的に存在する人物であった(そのような人物が、死んでしまった人物とどう違うのか、ということが作中で問われていたりする)。しかし、その「写真」と同等であったはずの人物が勝手に動き出してしまう(p41)。
だがここでは夏は、あくまで「中井による報告」によって、この小説世界に位置をもつ人物であった(しかしここで既に、《最近さぼりがちな中三女子》という、中井に話したとは思えない記述も混じっている、そしてこの「中三女子」が後で重要になってくる、何と巧みな構成だろうか)。それがいつの間にか、その存在を徐々に強く主張し、いわば勝手に育ってしまうように小説内に存在領域を広げてゆく。一人称のなかに唐突にあらわれる夏についての記述は、中井からの報告をもとに砂羽が構成したものだと考えれば辻褄はあう。しかし、夏が中井と会っていない時、中井によって砂羽に報告されるはずのない場面も小説に登場するようになる(p51、この場面とラストとで「中三女子」が重要な役割を果たす)。このようにして一人称が徐々に拡張、逸脱されてゆく。
この小説が原則として一人称である以上、それは砂羽とは別人である「夏」の実際の行動なのか、砂羽の脳内で勝手に育っていった人物としての「夏」の行動であるのかが、原理的に区別できない(「夏」の場面は、一人称的にではなく三人称的に外側から語られるので、なおさら「砂羽」の脳内構成物である感触が残される)。この微妙なゆらぎ(識別不能性の「さじ加減」)が、この小説のリアリティの根本に位置にあると思う。
(あと、海野十三の日記が引用されることで、一人称の小説のなかに他者の主観が混じることへの「馴らし」の効果があるとも言える。)
小説=砂羽である世界のなかに、夏は、中井の媒介によって持ち込まれ、次第に自然的に成長し、中井から離れても存在するような独立性を持つようになり、そして最後には役割が交代して、小説=夏となる。球の表面に穿たれた破れ目が次第に領域を広げ、最後にそこから、裏と表がひっくり返ってしまう。そのような意味で、夏は砂羽の分身であると言える。そして、この分身関係と、『寝ても覚めても』における分身関係は、裏表の関係にあると言える。『寝ても覚めても』が『めまい』なら、「わたしのいなかった街で」は『ロスト・ハイウェイ』という感じ(『寝ても覚めても』と「わたしがいなかった街で」で、新たな柴崎論を書きたくなってきた)。
夏が砂羽の分身であるとしても、それは鏡像的な分身ではない。夏は砂羽から生まれる。その意味では夏は砂羽の反復であり分身である。しかし、そもそもその種は中井によって外からもたらされ、さらにその種(夏)は砂羽とは独立し、勝手に育ってゆく(別の自律性をもつ)という意味では、やはり別人である。さらに、しかし夏の育っている(存在している)場所は、半ば砂羽の脳内であり、半ば、その外でもある。こうなると、内と外とを分けておくことが出来なくなる。内側のさらに内側が外へと通じており、外側の外側が内へと織り込まれる。そうなると今度は、この小説の中心的な「わたし」である砂羽こそが、(兄が残した帽子から)夏によって想像=創造された人物だとみることも可能になる。二人に「関係がある」と言えるのだとすれば、このような関係であろう。
だから、この、砂羽と夏の分身的関係は、この二人だけで閉じているわけではない。この二人の関係が、例えば砂羽と、砂羽がテレビで見ている戦争のドキュメンタリーに写されている向こう側にいる人とが結ぶ関係(両者が無関係ではないこと)や、あるいは、夏と、夏が高速バスから見た棚田の老夫婦とが結ぶ関係等の、つまり、わたしと、わたしがいなかった街との関係の、基礎となっているのだと思う。それは、他人が他人であるままに(他人であるからこそ)「わたし」でもあるのだという『ロスト・ハイウェイ』的な自他関係の感覚だと思う。
●それにしてもこの小説、最後が夏で終わっているからなんとなく収まりがいいようにみえるけど、砂羽からすれば、会社は辞めなきゃならなくなったし、あてにしていた友人のレストランの話もダメになって、しかも、貧血で倒れて病院に担ぎ込まれ、注射もろくに出来ないへたくそな医者から今度は点滴の針を刺されようとしているところで終わってしまうわけだから、ひどいというか、本当にひたすら先細りのままで投げ出されてしまうのだ。えーっ、ここで終わり、みたいな。