テアトル新宿で『寝ても覚めても』(濱口竜介)。やっと観られた。
個々の場面はとても面白いと思うのだけど、個々の場面の面白さを成り立たせているものと、この作品が採用している物語との間に、どのような必然的なつながりがあるのかというところが、最後までうまく掴めないまま観ている感じだった。最後まで観れば、辻褄は合っているというか、なるほど、こういう風に締めるのか、という納得は得られた。ただ、納得が出来たとはいえ、この映画の個々の場面(の演出や組み立て)がやろうとしていることと、「物語」との間に、緊密で必然的なつながりがあるとまでは思えなかった。
具体的に言えば、主人公の朝子が、亮平に対してもっと別の「罪」を犯したのだとしても、この映画は成り立つように思う。この映画は、かなり異常と言ってもよい物語をもっている。だけど、この物語のもつ「同じ顔なのに違う人(違う人なのに同じ顔)」という(この物語の異常さを生んでいる「イメージと同一性」の問題ともいえる)要素は、この映画にとって、あってもいいけど、なくてもいいような、代替可能な要素であるように思えた。この映画は、麦がいなくても、別の秘密、別の罪でも成り立つのではないか、と。
このように感じてしまったことの原因の一つに、最初の方の「麦のパート(二人の出会い)」への違和感があるのかもしれない。この部分を、おとぎ話として、ラブストーリーを成立させる一つの「嘘=奇跡」として、すんなり受け入れることができれば、その先に対する感じ方も変わったのかもしれない。しかしぼくは、いや、これはちょっと……、と思ってしまった。そもそも、この映画の作風が、そういう嘘=奇跡を、嘘=おとぎ話として成立させるようなものではなく、ほかの部分では、人間関係の描出はとてもリアルでシビアなものとして造形されている。それなのに、麦と朝子との出会いの場面にだけ「魔法」をかけようとしても、子供たちの爆竹(花火)くらいでは魔法にはかかれない、と。
(東出昌大による亮平はすばらしいと思うのだが、麦は「なんか違う」と思ってしまった、ということもある。麦という登場人物の造形や振る舞いには、かなり無理があるように感じられた。いや、はじめから「無理がある」設定の人物なので、「無理が足りない」ということかもしれない。)
●このように感じるのは、すでに原作小説の方に強いインパクトを受けてしまっているせいもあるかもしれない。それと、濱口竜介という作家のことをあまり知らない(『PASSION』と『天国はまだ遠い』しか観たことがない)ということもあるだろう。「濱口竜介という映画作家」を主軸として、作家の映画のうちの一本としてこの映画を観れば、また違った感じ方があるのかもしれない。
●この映画で「イメージの問題」が重要になるのは、亮平と麦とが同じ顔である(同じ顔なのに違う人、違う人なのに同じ顔)ということよりもむしろ、主人公の朝子の(マネ的とも言えるような)得体の知れない無表情の方にあると思った。この映画におけるリアルな感じで生起する(ある意味、とても合理的に軋轢が設計されているとも思われる)人間関係の軋轢を、ことごとくしれっと呑み込んでしまうような、底なし沼のような朝子の得体の知れない無反応の感じはすばらしかった。ラストのバルコニーでのツーショットでの朝子などは、まさにマネの絵(「フォリー・ベルジェールのバー」や「バルコニー」、「温室にて」)のような無表情であるように思う。
原作の小説では、朝子による一人称で書かれているから、「見られている」のは亮平や麦であるが、映画ではむしろ、朝子こそがカメラから(見えづらく、捉えがたい対象として)「見られている」感じはある。
小説における一人称の話者を、映画が素直にカメラに写る「対象」として造形し直そうとすると、普通にこういう感じになるのかもしれない。小説において話者であった人(=視点)が、映画においては人=対象になるという、この位置の転換(によって生まれる不思議な感覚)こそが、一番おもしろかったところかもしれない。
●朝子が亮平を追いかけるのを、雲の切れ目からの光が追いかけているような川縁のロングショットは、天気があの状態になるのを待って、狙って撮影したのだろうか。
●映画館の音響装置で聴くトーフビーツはいっそうかっこよかった。