2022/02/18

●『ドライブ・マイ・カー』(濱口竜介)をU-NEXTで観た。これは評価が高くて当然だと充分に納得できる作品だった。おおーっ、と、興奮して前のめりになる感じではないが、なるほど、なるほど、なるほど…と、観ている間じゅう「なるほど」がどんどん積み上げられていって、分厚くて高い「なるほど」の山が出来る感じ(以下、ネタバレしています)。

●この映画で一番驚いたのは、岡田将生が語る霧島れいかの物語---「わたしが殺しました」と「監視カメラ」---が、事後的に岡田自身の自分語りへと折れ曲がってしまうところ(「監視カメラ」が、岡田が殺した「犯行」の証拠になる・「わたしが殺しました」と岡田が言うことになる)。世界がぐにゃっと歪んで、内と外、比喩と現実とが反転する。この部分では、おおーっ、と、思わず声が口から漏れた。霧島れいかの物語の比喩性---深さや神秘---が、岡田将生の「犯行」の具体性によって上書きされて、変質してしまう。岡田によって「霧島の内面(比喩)」が「外面(現実)」へポロッと出てきてしまう。

これがあるからこそ、終盤で三浦透子西島秀俊に語る「音さん(霧島れいか)をそのままの人として受け取れませんか」というセリフが効いてくる。「空き巣の物語=心の闇」を比喩として解釈・解明しようとするのではなく、たんに、西島秀俊を愛しているのと同時に、他の男ともやりたくなってしまう人だったのだ、と。謎=闇=深さとしてではなく、並立性として理解せよ、と。謎=闇=深さと、多元的並立性(多言語性、多様性、表層性)との対立と拮抗がこの作品の重要なコンセプトの1つだと思われ、後者により村上春樹批判になっていると思う。

(『寝ても覚めても』の時は、いわゆる芸能人---東出昌大唐田えりかなど---と、そうでない人たちとの「演技の質」の違いに違和感があったのだけど、この作品ではその「違い」が積極的な意味をもつまでに昇華されていて、この点について大きな「なるぼど」となった。多言語的であることが、演技の質のばらつきまでをも包み込んでいる。)

岡田将生西島秀俊にとって他者ではなく分身で、本来なら西島が占めるべき位置を---妻の死による傷で---占められなくなってしまっている間だけ、代理的に占め、しかるべき時が来たら自ら姿を消してその位置を西島に譲って交替する。あるいは、分身を装って西島を挑発する---西島の「左目」を刺そうとする---悪魔の化身? 岡田は、西島の傷による欠落の場を埋める存在であると同時に、「ここに傷がある」と、傷とその位置を顕在化し、西島自身に傷の存在と在処を意識させつづける。西島にとって、三浦透子は沈黙---無口と、静かな自動車の走行---と他者性(わたしの傍らの、わたしではないわたし)において作用するが、岡田は分身性(そこにいるわたし)において作用する。

(性行為によって湧き上がってくるらしい霧島れいか自身の物語が、西島秀俊によって書き起こされることで脱身体化されるのに対し、霧島にとって他者のテキストであるチェーホフが、録音されることで声として身体化されるという逆説は面白い。霧島の死後に西島が向き合う/向き合い損なうのは、霧島自身が語った物語ではなく、彼女の声が語るチェーホフの方なのだ。霧島の死とチェーホフとは、出来事として、偶発的であるからこそ絶対的に---「意味」を超えているからこそ「意味」によってでは解けない形で---結びついてしまっている。しかしその結びつきは、西島にとってだけ「意味」をもつ。そして霧島自身の物語の方は、録音された声でもテキストでもなく、岡田将生という分身=幽霊によって回帰する。つまりそれこそが西島が「意味」として「避けている」ものだった。岡田はある意味で、「霧島の死という不条理(意味づけられなさ)」の具現化のような人物だ。だがさらに、その岡田が行う「犯行」によって、物語は比喩の井戸の底から、具体の日の光の下へと反転する。この、意味から現実への唐突な越境は、「意味(図)」の変質というより「世界(地)」の裏返りのような出来事だ。この展開はとても面白い。)

(一方に、身体から湧き上がった後に切り離されて脱身体化する物語があり、これは比喩=深さをもたらす。もう一方に、身体の外からもたらされて声によって受肉化するチェーホフのテキストがある。外からもたらされたはずのチェーホフは、偶発的に「霧島の死」と結びつき、さらには、西島の現状に驚くほどシンクロしてしまう。西島は、この結びつき=シンクロにより舞台の上に自分の位置を失う。このシンクロを引き剥がして再び「外化」させるためであるかのように、西島は俳優たちに「棒読み」を命じるが---あるいは、霧島の声(=一)に拮抗するような俳優たちのパフォーマンス(=多)を求めるが---テキストにかけられた呪いは未だ解かれない。そんな折りに、自分の代理として舞台に立つ岡田の口を経由して「物語」が回帰する。ここでさらに、西島に対してシンクロとは別の、比喩=深さという呪いが課されたかにみえる。だが岡田は、自らの行為を通じて比喩をリテラルに実現してしまう---してしまっていた---ことで、比喩から比喩としての位置を奪う。そして、自らが消えることで、西島に「舞台の上」という位置を返す。)

(俳優たちは、「霧島の声=一」に対する「多」として拮抗するが、三浦透子は、「霧島の声=言葉」に対して「沈黙=運転」で拮抗する。あるいは、西島の呪いに対して、自分自身の呪いで拮抗する。)

(ただ、三浦透子の「母親の別人格」まで出してくるのはちょっと盛り過ぎではないかと思った。霧島れいかの二面性---西島秀俊を愛している/多くの男性と関係をもつ---を反映しているとしても。あと、三浦が西島の亡くなった娘と同じ年齢というのも、そこまでする必要あるのかなあ…、と。年齢の離れた男女の、性愛とは無関係に結ばれる希有な関係であるようなものが、代理的な父-娘というわかりやすさに落ちてしまう感じ。)