●つづき。『神々の沈黙』の第二章で、ジュリアン・ジェインズは、意識の特徴として、(1)空間化、(2)抜粋、(3)アナログの〈私〉、(4)比喩の〈自分〉、(5)物語化、(6)整合化(適合化)を挙げる。
(1)空間化
《意識の第一の、そしてもっとも基本的な側面は、すでに取り上げた、〈心の空間〉だ。それは私たちが用いるほとんどすべての心的比喩の〈投影連想〉であり、私たちが意識の在りかとして占拠しているものだ。ここでみなさんに、以下のことを順番に思い浮かべるようお願いしたとしよう。まず自分の頭、次に足、今朝の食事、ロンドン塔、オリオン座。すると、それらは空間的に隔たっていることだろう。私がここで言わんとしているのはこの性質のことだ。内観するとき(これも、何かをのぞき込むという比喩だ)、私たちは意識にあがる新たな事物や関係でこの比喩上の〈心の空間〉をたえず更新し、「広げて」いる。》
《私のこの仮説が心に関するもろもろの仮説のどのあたりに収まるかを、今みなさんが考えていたとしよう。そうすると、まずみなさんは習慣的に自分の〈心の空間〉に「目を向ける」。そこでは、抽象的なものを「分別し」、「並べ」ておいて、「眺める」ことができる。これは、物理的には、つまり現実にはありえないことだ。次に、みなさんはこれらの仮説の具体的な比喩を作り、続いて、その時系列を共時的な比喩で捉え、さらに、仮説の性質をある程度まで物理的な比喩に変えることによって、それらの仮説を特定の順番に「並べ」られるようにする。最後に、「はめ込み」という表現上の比喩を用いる。「はめ込み」とは意識におけるアナログであり、実際にはめ込む行為はその人あるいは文化によって異なりうる。過去に事物を何らかの順番に並べた、あるいは、事物を対応する位置にはめ込んだ経験に左右されるのだ。したがって、比喩の面における思考の基盤はじつに複雑なときもあり、明らかにするのは難しい。》
(2)抜粋
《意識の中では、私たちは何かの全貌を「みている」ことは絶対にない。「見る」というのは、実際の行動のアナログだからだ。実際の行動において私たちがある瞬間に見たり認識したりできるのは、何かの一部でしかない。意識の中でもそうだ。ある事物には様々な注意を向けうるが、私たちはその一部を〈抜粋〉し、それがこの事物に関する私たちの知識となる。意識は私たちの実際の行動の比喩なので、それ以上のことはできないのだ。》
《他人の何を〈抜粋〉するかで、自分がどういう世界に生きていると感じるかがおおむね決まる。》
《〈抜粋〉は記憶とは別物だ。ある事物の〈抜粋〉は、意識の中で事物か事象を表している。記憶はそうした事物か事象に結びついており、私たちはそれらを通して記憶を呼び戻すことができる。もし私が去年の夏に何をしていたかを思い出そうとすると、まずその時期の〈抜粋〉をする。〈抜粋〉は、カレンダー上の二か月ほどの瞬間的なイメージかもしれない。やがて、ある川岸を歩いていたことなど、特定の出来事の〈抜粋〉に行き着くだろう。そこから、連想を広げ、昨夏の記憶を思い起こす。これが追憶と呼ばれる行為であり、どの動物にも真似できない特別な意識の過程だ。追憶はひとつながりになった〈抜粋〉だと言える。》
(3)アナログの〈私〉
《比喩の「世界」の最も重要な特徴は、自分自身の比喩、すなわちアナログの〈私〉だ。アナログの〈私〉は、「想像」の中で私たちの代わりに「動き回り」、私たちが実際にはしていないことを「する」。もちろん、アナログの〈私〉には多くの働きがある。私たちは「自分自身」があれこれ「する」ところを想像して、決意を固める。その決定は、もし仮想の「世界」で行動する仮想の「自分」がいなければ不可能な仮想の「結果」に基づいて行われる。〈空間化〉の項で紹介した例で、私の説が一連の仮説のどの位置に「収まる」かを「見極め」ようとしていたのは、実際に行動するみなさん自身ではない。それは、みなさんのアナログの〈私〉なのだ。》
(4)比喩の〈自分〉
《しかし、アナログの〈私〉はただそれだけのものではない。比喩の自分でもある。遠回りの道をそぞろ歩く自分を想像するとき、私たちは第一章の例でやったように、「自分自身の姿」を実際に「目にして」もいる。想像上の自分の中から想像上の景色をみることもできるし、その位置から少し下がって、たとえば、ある小川でひざまずいて水を飲もうとしている自分の姿をみることもできる。もちろん、ここにはじつに深遠な問題がある。とりわけ、〈自分〉に対する〈私〉の関係についてはそうだ。》
(5)物語化
《私はここにこうして座り、本を書いている。この事実は私の人生の物語のおおむね中心に埋め込まれており、時間は〈空間化〉され、私が歳月とともに歩む旅になっている。新たな状況がこの進行中の物語の一部として選択的に知覚され、物語にそぐわない知覚は気づかれぬままになる。あるいは少なくとも記憶には残らない。さらに重要なことに、この進行中の物語にふさわしい状況が選ばれ、やがて人生において私が自ら描く自己像が、新たな状況が現れるたびにその中で自分がどう振る舞うか、あるいはどう選択していくかを決めるようになる。》
《自分の行動に原因を割り当てること、すなわち、特定の行動をとった理由を述べることは、すべて〈物語化〉の一部だ。そうした原因は、理由としては正しい場合も誤っている場合もある。当たり障りのないものだったり申し分のないものだったりするかもしれない。意識は私たちが自分のしていることに気づいたときは、いつでもその理由を説明する準備ができている。泥棒は己の行為を貧しさのせいにし、詩人は美のため。科学者は真実のためと理由づけ、〈物語化〉する。目的と原因は、意識の中で〈空間化〉される行動にしっかりと織り込まれる。》
《しかし、私たちが〈物語化〉しているのはアナログの〈私〉だけではない。意識にあるいっさいのものだ。ある孤立した事実は、ほかの孤立した事実と適合するように〈物語化〉される。子供が通りで泣いていると、私たちは心の中でその出来事を、道に迷ったこともとその子を探している親の心象に〈物語化〉する。(…)あるいは、自分に理解できるような心のなかの事実を、意識の理論に仕立てる。》
(6)整合化(適合化)
《知覚された対象がやや曖昧なとき、それを過去に学習されたスキーマ(訳注 私たちがもつ知識の構成単位)に整合させる課程だ。この自動化された課程は「同化」と呼ばれることがある。私たちは新しい刺激を自分の概念あるいはスキーマに同化する。たとえ両者が微妙に違っていても、だ。(…)この過去の経験への同化は私たちが世界を知覚する間ずっと起きている。様々な事物に関して過去に学習したスキーマに基づき、私たちはそれらの事物を認識可能な対象物にまとめている。》
《そして、意識された同化作用が〈整合化〉だ。〈compatibilization(適合化)〉と呼ぶほうがふさわしいかもしれないが、それではあまりにおおげさに聞こえる。私の言う〈整合化〉とは、〈物語化〉が心の時間(つまり空間化された時間)の中ですることを、〈心の空間〉で行うことを意味する。〈物語化〉では事物をまとめて物語にするように、〈整合化〉では事物をまとめて意識の対象物にする。このように一貫性あるいは蓋然性を保つための調整は、経験によって積み重ねられた規則に従って行われる。》
《高原の草地と塔を同時に考えてくださいとみなさんにお願いした場合、自動的に〈整合化〉が行われ、草地から塔がそびえる光景が浮かぶだろう。しかし、高原の草地と大洋を同時に考えるように頼んだとすると、〈整合化〉は起こらないことのほうが多く、一方を考えた上で、次に他方を考える可能性が高い。両者を一つにまとめられるのは〈物語化〉によってだけだ。このように、〈整合化〉の課程を支配する適合性の諸原理が存在する。それらの原理は学習されたものであり、世界の構造に基づいている。》
・まとめ
《議論の経過とその向かう先を「見る」ため、おさらいをしておこう。まず、意識は事物や収納庫、あるいは機能というよりは働きかけだと述べた。意識は類推によって、つまり、アナログの空間を構成することによって働きかける。そこでは、アナログの〈私〉がその空間を観察し、その中で比喩的に動くことができる。意識はどのような反応性に対しても働きかけ、関係ある場面を〈抜粋〉し、それらを比喩的な空間で〈物語化〉し、まとめて〈整合化〉させる。比喩的な空間では、現実の空間における事物同様、これらの場面の意味を操作できる。意識ある心は世界の空間的アナログであり、心的営みは身体的営みのアナログだ。意識は客観的に観察できる事物にのみ働きかける。あるいは、ジョン・ロック風に言うならば、意識の中には、もともと行動の中にあったもののアナログでないものは一つもない。》
《もし、意識が言語に基づいて創造されたアナログ世界であり、数学の世界が事物の数量の世界と対応するように、行動の世界と対応しているとしよう。すると、意識の起源についてなにが言えるだろうか。》