●一昨日からつづき。『神々の沈黙』の第二章に先立つ第一章で、ジュリアン・ジェインズは「意識は何であるか」を問う前提として「意識は何ではないのか」を問うている。この部分こそが最も重要かもしれない。
《意識とは何か。こう尋ねられたとき、私たちは意識について意識するようになる。そしてたいていは、この意識を意識することこそ、意識の本質だと考える。しかし、これは真実ではない。》
《これまでの誤りを立証し、意識が何でないかを示すことがこの章の課題となる。》
●反応性と意識の違い
《(…)頭部を殴打されて「意識を失う」という表現がある。だが、これが正しいとすると、臨床で言う「夢遊状態」を指し示す語がなくなってしまう。夢遊状態にある人は明らかに意識がないが、ある程度の反応は見せる。こうした反応は、たたきのめされた人間には見られない。したがって、今挙げた例で頭部を殴打された人は、意識とともに私が「反応性」と呼ぶものを失う。》
《私たちは対象を意識しないままに様々なものに間断なく反応している。木にもたれているとき、私はつねに木にも、地面にも、自分の姿勢にも反応している。それは、歩きだそうとすれば、そのためにまったく意識せずに地面から立ち上がることでわかる。》
《すなわち、反応性は私の行動にかかわる刺激のすべてを対象とするが、意識はそれとはまったく別の、反応性に比べてはるかに狭い範囲の現象なのだ。自分の反応しているものを意識することはたまにしかない。》
《私たちはたえず事物に反応しているが、それがどのように行われているかについては、いっさい意識に上らない。いかなる場合にも、だ。何を見ていても、私たち人間の目、つまり網膜像は、毎秒二〇回切り替わりながら対象物に反応している。それにもかかわらず、私たちが見ているのはとぎれることのない安定した対象物であり、相次いで投入されてくる個々の情報や、それを対象物に統合している事実は少しも意識されない。しかるべき状況下で、あるものが並外れて小さな網膜像として捉えられれば、それは遠くにあると自動的に見なされる。だが、この判断が行われたことは意識されない。(…)ここで私が考えているのは、意識とは「現在進行中の精神作用の総和」であるというティチェナーの定義だ。私たちは今、そのような立場とはかけ離れたところにある。》
《意識が心の営みに占める割合は、私たちが意識しているよりはるかに小さい。というのも、私たちは意識していないものを意識することはできないからだ。これは言うのは非常にたやすいが、十分理解するのはなんと難しいことか。暗い部屋で、まったく光の当たっていない物を探してほしいと、懐中電灯に頼むようなものだ。懐中電灯はどの方向であろうと自分が向く方向には光があるので、どこでも光があると結論づけるに違いない。これと同じように、意識は心のどこにでも行き渡っているように思えてしまう。実際にそうではないのに、だ。》
●意識の不連続性について
《いつ意識を働かせているのかという問題もまた興味深い。私たちは起きている間、ずっと意識があるのだろうか。私たちはみなそう考えている。(…)そこで多くの思想家は、この連続する精神こそ、哲学の出発点であり、疑う余地のない確実な礎であると考えた。「我思う、我あり」、だ。》
《(…)意識の連続性と思われるものもまた、意識にまつわる他の比喩の大半と同じく錯覚にすぎないと考えるほうがはるかに真実味がある。懐中電灯のたとえで言えば、懐中電灯は、自身が点灯しているときにしか、点灯していると意識することはない。たとえ点灯していない時間がかなり長かったとしても、周囲の状況にほとんど変化がなければ、懐中電灯には光がずっと点灯していたように思われるだろう。このように、私たちが意識を働かせている時間は、自分で思っているほど長くない。意識を働かせていないときのことは意識しようにないからだ。》
《目の見えない人自分が盲目であることがわかっている。しかし、正常な視覚を持つ人間は視野の中のこの欠落部分に気づかず、ましてやそれを意識することなどとうてい不可能だ。(…)同じように、意識は自らの時間的な欠落を継ぎ合わせて、連続していたという錯覚を与えるのだ。》
●行為の遂行と意識の無関係性について
《日常的な行動を私たちがいかに意識していないかを示す例は、いたるところにあふれている。中でもピアノの演奏は、その最たるものだ。ピアノを弾くときには、複雑に組み合わされた様々な作業が、ほとんど意識されることなく同時に遂行されている。(…)当然のことながら、意識は通常、こうした複雑な活動を学習する上で一役買っているが、その遂行には必ずしもかかわっていない。》
《今このときにも、みなさんは自分がどのように座っているか、手がどこに置かれているか、どれくらいの速さで読んでいるか、意識してはいない。もちろん、私がこう指摘したその瞬間には、意識するに違いないが。また、物を読んでいるときには、文字には意識していないし、単語や構文、文や句読点さえも意識しておらず、その意味にのみ意識を集中させている。》
《これは、書いたり話したりしているとき、私たちがほんとうは、実際に行っている行為を意識していないためだ。》
●意識は経験の複写ではない
《私たちの多くは、意識のおもな機能は経験を蓄積し、カメラのようにそれを複写することにあり、そのおかげで後々私たちは過去の経験を思い返すことができると断言するだろう。》
しかし…
《何度も注意深く見た経験により蓄積したと考えていたイメージに関して、意識的に思い出せる部分があまりに少ないことに驚かれるのではないかと思う。だがもし、いつものドアが急に反対側から開いたり、別の指が突然長くなったり、赤信号の位置が異なったり、歯が一本多くなったり、電話の様式が変わったり、背後の窓に新しい掛け金が取り付けられたりすれば、みなさんはたちまちそれに気づくだろう。つまり、初めから知っていたが、意識はしていなかったのだ。これが心理学者の間ではよく知られている「再認」と「再生」の相違だ。意識的に「再生」できるのは、実際の知識の果てしない大洋に比べれば、ごくわずかでしかない。》
●意識は概念に必要ではない
《意識にまつわる別の大きな誤解は、意識こそ概念が形成される唯一の特別な場所であるという通念だ。(…)それによれば、私たち人間は様々な具体的事情を意識しながら経験し、その中で似通ったものをある一つの概念としてまとめていることになる。》
しかし…
《ミツバチには花という概念があり、タカには切り立った山の岩棚という概念があり、巣作り期のツグミには緑の葉に覆われた上方の木の股という概念がある。概念とは、行動的に見て同価値の事物の分類にほかならない。根本概念は先験的なもので、行動を生じさせる〈性向決定構造〉の根幹をなしている。ミューラーは、ほんとうは誰も「木」というものを意識したことがないと言うべきだったのだ。というのも、実際のところ、意識は概念の貯蔵庫でないばかりか、通常は概念とともに活動してさえいないからだ。私たちが意識的に「木」というものについて考えた時、実際に意識しているのはある特定の木、家のそばに植わっているモミやカシやニレなどであって、それに「木」という概念を象徴させているのであり、これはある概念語に具体的な木を象徴させられるのと同様だ。実際、単語に概念を象徴させるというのは、言語のもつ重要な役割の一つで、それはまさに、私たちが概念的な事柄を書いたり、話したりするときに行っていることにほかならない。通常、概念は意識の中にはいっさい存在しないため、このような必要が生じてくるのだ。》
●意識は学習に必要ではない
《両手にコインを持ち、双方のコインを反対の手でつかめるように、交差させて放ってみてほしい。一〇回も試せば、できるようになるだろう。ではそうしている間、みなさんは自分の行為一つひとつに意識を働かせているだろうか。そもそも意識は必要だろうか。学習は意識的というよりはむしろ、肉体的な事柄と言うべきものであることがおわかりになるだろう。意識は人間を課題に導き、到達すべき目標を与える。しかしその後は、その課題を行う自分の能力に対するつかの間の神経症的な不安を別にすれば、学習はひとりでになされるようなものだ。》
《学習の対象が複雑な技能であっても、前述の点はまったく変わらない。タイピングはこれまで盛んに研究されており、ある実験者の次のような言葉がおおむね受け入れられている。「技法の改変や簡素化は、ことごとく無意識になされた。つまり、学習者がまったく意図しないうちに身についていたのだ。学習者はあるとき突然、課題の一部を新しい優れたやり方で行っている自分に気づくのだった」》
《コイン投げの実験のとき、もしみなさんが意識を働かせていたら、それが学習を妨げることに気づいていたかもしれない。この現象は前述の技能の遂行時と同じく、技能を学習する際にも、非常によく見受けられる。》
《これよりは複雑なものに「解決学習」(あるいは「道具的条件づけ」「オペラント条件づけ」)がある。》
《誰かに自分の前に座って、思いつく限りの単語を、一語一語書き取れるように二、三秒ずつ間を置いて言うように指示を出す。そしてその単語が複数形の名詞(あるいは形容詞や抽象語など、どんなカテゴリーでもよい)のときに、それを書き取りながら、「いいね」とか「なるほど」とか言ってみてほしい。あるいはたんに「ふむふむ」と相槌を打ったり、にっこり笑ったり、感じよくその複数形の単語を繰り返したりするのでもかまわない。すると複数形の名詞(あるいはその他、特定のカテゴリーの語)が発せられる頻度は、単語の数が増えるにつれ、著しく高まるだろう。ここで重要なのは、被験者に何かを学習している自覚がまったくない点だ。》
《意識を働かせていなくとも学習したり問題を解決したりできる人間を(あくまで可能性の話だが)想定しうるのだ。》
●意識は思考に必要ではない
・判断について
《はじめにペンと鉛筆、あるいは、異なる分量の水を入れた二つのグラスなど、重さの異なるものを二つ用意し、目の前の机に置く。そして目をいくぶん細めて課題への集中力を高め、親指と人差し指で挟んでそれぞれを持ち上げて、どちらが重いかを判断する。そして自分のしていることをすべて内観してほしい。すると、指先の皮膚が対象物から受ける感触や、重さを比べているときに感じる下向きのわずかな圧力、対象物の側面のでこぼこなどを意識していることに気づかされると思う。では、どちらが重いかという実際の判断はどうだろう。それはどこにあるのだろう。なんと、一方が他方よりも重いという判断そのものは、意識されていないではないか。その判断は、神経系によって知らぬ間に与えられる。この判断過程を思考と呼ぶならば、こうした思考にはまったく意識が働いていないことがわかるだろう。》
・部分的制限連想(ヘンリー・ジャクソン・ワット)
《被験者はカードに印刷された名詞を提示され、そこから連想された語をできるだけ早く言うように指示された。ただしその方法は自由連想ではなく、心理学において「部分的制限連想」と呼ばれるものだった。すなわち、様々な語群について、被験者は視覚的単語から連想する上位語(たとえば「カシ」から「木」)、等位語(「カシ」から「ニレ」)、従属語(「カシ」から「角材」)を回答するように求められた。(…)この「制限連想」という課題の性質により、実験時の意識を四段階に分割できるようになった。つまり、なされるべき制限の教示(たとえば「上位語」)、刺激となる名詞の提示(「カシ」)、適切な連想語の検索、そして回答の表明(「木」)だ。被験者は、一段階ごとに集中して内観するよう指示されるので、各段階では意識について、より厳密に説明できるようになる。》
《思考しているという意識はワットの第三段階、すなわち特定の「制限連想」に合致する語を検索する段階に現れるはずだった。ところが、結果はまったく違った。内観したとき空白になるのは、まさにその第三段階だった。どうやら、要求されている特定の連想方法を意識の観察者が十分に理解した上で、ひとたび刺激語が与えられれば、思考は実際に意識されることなく自動的に行われるようなのだ。》
・思考は自動的に行われる
《(…)人は何について考えるべきなのかを知る前に思考していることになるからだ。このような思考において重要なのは教示だ。この教示がきっかけですべてが自動的に進みだしうる。これを教示(インストラクション)と構築(コンストラクション)の両方の意味を込めて、〈ストラクション〉と短縮して呼ぶことにしよう。》
《線分で分けられた6と2という二つの数字6|2を与えられた場合、このような刺激から思いつくのは8かもしれないし、4かもしれないし、3かもしれない。これは与えられた〈ストラクション〉が足し算なのか、引き算なのか、割り算なのかによって変わってくる。重要なのは、〈ストラクション〉自体、つまり足し算、引き算、割り算という過程は、ひとたび与えられた後は神経系の中に姿を消してしまう点だ。しかし、ある一つの刺激から三つの異なる回答を出しうるのだから、〈ストラクション〉は間違いなく心の中にある。それでいて、ひとたびその過程が始まってしまえば、私たちはその事実にまったく気づかない。》
《話をするとき、私たちは単語を探し、その単語で句をつくり、その句で文を作るといったことに実際は意識を働かせていない。私たちが意識しているのは、自分自身に貸す一連の〈ストラクション〉だけであって、その結果、意識の介在はいっさいないまま、自動的に話が生み出されてくる。》
《以上より、実際の思考過程は、通常意識の本質だと考えられているにもかかわらず、じつはまったく意識されておらず、意識の上で知覚されるのは思考の準備と材料、そしてその最終結果だけと言える。》
●意識は理性に必要ではない
《理性的な推理と論理は互いにとって健康と薬、あるいは---より適切に言えば---行動と倫理のような関係にある。推理とは、日常生活のなかで行われる自然な思考過程全般を指す。一方、論理は客観的真実を求める場合に用いるべき思考方法なのだが、日常生活と客観的真実の間の関係は非常に希薄だ。論理とは、自然な推理によって導いた結論を正当化するための知識にほかならない。ここで強調したいのは、このような自然な推理が起こるには、意識は必要ないということだ。私たちが論理を必要とするのは、推理の大半はまったく意識されていない、まさにそのためなのだ。》
《私たちは通例、過去の経験に基づいて自動的に一般論を導き出す。その一般論の基礎となった経験をいくつか想起できることもあるが、それはあくまで後から振り返った場合に限られる。正しい結論にたどり着きながら、その根拠を示せないことがどんなに多いだろう。それというのも、推理に意識は働いていないからだ。(…)他人の行動からその動機を推察するときのことを考えてみてほしい。これらは明らかに神経系による「自動推論」の賜物で、意識はそこに不要であるばかりでなく、運動技能の遂行ですでに見たように、その過程を阻害する可能性も高いのだ。》
《腰を据えて問題と向かい合い、意識を働かせて帰納と演繹を繰り返す学者像など、ユニコーンと同じく絵空事にすぎない。人類の偉大な洞察の訪れは、もっと謎めいたものだ。》
《イギリスのある高名な物理学者はかつて、ウォルフガング・ケーラーに次のように語った。「我々の間ではよく、三つのBと言います。バス(Bus)、風呂(Bath)、ベッド(Bed)です。我々の科学における偉大な発見は、これらの場所でなされるのです。」》
《ここでカギとなるのは、創造的思考にはいくつかの段階があるという点だ。(…)準備期間の本質は、〈ストラクション〉が作用する材料に意識的な注意を向けて、複雑な〈ストラクション〉を組み立てることにある。しかしそれ以後、実際の推理のプロセスや大発見への不可思議な飛躍は、分銅の重量比較のような単純で取るに足らぬ判断とまったく同様に、意識に何ら表象を与えない。それどころか、ときとして、問題は忘れてしまなければ解決できないかのように思われるほどだ。》
●意識はどこにあるのか
《誰もが、いやたいていの方は、頭の中だと即答するだろう。というのも、私たちが内観するときには、目の奥のどこかにある内部空間を見詰めているように感じるからだ。(…)だが、とごを見ているのだろう。意識が空間的な性質を持つ点については、疑問の余地がないように思われる。その上、私たちは体の向きを変えたり、少なくとも違う方向を「見詰め」たりしているようだ。だが、(その想定された内容はさておき)この空間の性質を突き詰めていこうとすると、私たちはなんとなくいら立ちを覚える。まるで、何か知られたくないものがあるかのようであり、それを問題にすること自体、和やかな場での不作法な振る舞いのごとく、なぜか不快感を引き起こす性質があるかのように思われるからだ。》
《意識の在りかを脳のなかに認める現象的な必然性はないという見解は、意識が体外にあると感じられる様々な異常体験により、いっそう説得力をます。戦時中に左前頭部に傷を負った友人は、病室の天井の片隅で意識を回復し、包帯を巻かれてベッドに横たわる自分自身を、陶酔感に浸りながら見下ろしていたという。(…)こうした事例に形而上学的な意味はまったくない。それらはたんに、意識の在りかが恣意的な問題となりうることを示しているにすぎない。》
●まとめ
《意識は技能の遂行に関与せず、その実行を妨げることも多い。意識は話すこと、書くこと、聞くこと、読むことに必ずしも関与する必要はない。たいていの人が考えているように、経験を複写してもいない。意識は信号学習に無関係であり、技能や解決法の学習にも必ずしも関与する必要はない。これらはまったく意識されずに起こりうる。また、意識は判断を下したり単純な思考をしたりするのにも必要ない。意識は理性の座ではなく、非常に困難な創造的推理の事例のうちには、意識の介在なく行われるものさえある。そして、意識の在りかは、想像上のものでしかないのだ。(…)そして、もしこの推測が正しければ、会話や判断、推理、問題解決にとどまらず、私たちのとる行動のほとんどを、まったく意識を持たぬ状態でこなす人々がかつて存在しえた可能性は十分ある。》