2023/10/23

⚫︎(ちょっと昨日のつづき)「午後の最後の芝生」は、今(小説が発表されたのは1982年)から、十四、五年前の、ジム・モリスンが「ライト・マイ・ファイヤー」を唄っていたり(1967年)、ポール・マッカートニーが「ロング・アンド・ワインディング・ロード」を唄っていたり(1970年)する頃の話だとされる。小説の冒頭近くで、主人公は中学校の横を通りながら、ここにいる学生たちは、「あの頃」にはまだ生まれていなかったか生まれたばかりだったのだと考えるのだが、ぼく自身がまさに、ここに出てくる中学生たちと同じ年代なのだ気づいた(1967年生まれ)。つまりこの小説はぼくが生まれた頃の話なのだ。

時期だけでなく、場所も具体的に記されており、読売ランドの近くで、神奈川県とされているので、おそらく小田急線沿線の、新百合ヶ丘とかその辺りの住宅街なのだろう(ちなみに、読売ランドは1964年3月に開園した)。

時代と場所が、かなり狭い幅で特定できるように書かれてはいるが、では、この小説が、その時期のその場所と具体的に結びつけられた話なのかというと、そういうわけではないと思う。その時代、その場所にいた(いたかも知れない)、虚構的かつリアルな五十歳前後の女性を造形しようとしているのではないだろう。

(時代性に関しては、「あえてそれには触れない」ことで、「虚の形」として言及される学生運動―政治の季節―と、それへの敵意の記憶と結びついているという意味でならば、具体的な結びつきがあるとは言えるだろう。)

昨日の日記で、この小説の核心は、主人公と一瞬すれ違うことで浮かび上がる、孤独な五十歳前後の女性の生に宿る闇の「深さのイリュージョン」だと書いた。この「深さのイリュージョン」は具体的な描写の積み重ねによって浮かび上がるが、その具体性は、因果的、物語的説明には結びつかない。たとえば、絵画における「深さのイリュージョン」は、そこに空間の感覚を生み出すが、絵画は平面なので実際にそこに空間などなく、まさにイリュージョンなのだが、そこでイリュージョンとして生み出される空間の質こそが、その絵画の意味であり、その絵画が生産する感覚である。そして、絵画においても、そのイリュージョン=空間性が、その対象の持っている空間性(三次元空間)の再現を目的としているとは限らない。あるいは、リンゴを描くことが、リンゴという存在の再現を目指しているとは限らない。

「午後の最後の芝生」で描き出される五十歳前後の女性の生の「深さのイリュージョン」は、一人の虚構的でリアルな女性の存在を支える「厚み」としてあるいうよりも、その「深さ」と共にある女性の存在を、そのままある何かの比喩として機能させるという方向で形作られているように思う。それは何の比喩なのかといえば、このイリュージョンによって浮かび上がる「感情」の比喩ではないか(あるいは、感情そのものが比喩となる)。我々は、ここに描かれる、虚構的でリアルな一人の女性の存在を(他者として)感じるというよりも、主人公と女性のすれ違いによって生まれるイリュージョン=感情を受け取り、その感情が自分の内側に「ある共鳴」を作り出すことを感じ、味わう。これは、女性像に共感するということとは微妙に違う。

その「ある共鳴」とは感傷であり、我々は、ここで浮かび上がる「喪失の深さ」を比喩とすることで、それを感傷として味わう。我々は、喪失を味わうのではなく、比喩化された喪失を、感傷として味わう。十代のぼくが惹かれたのはこのような機制であり、そしてその後、ぼくはそのような機制がら距離をとるようになり、懐疑的になっていく。