2023/10/22

⚫︎日本(語)の現代小説に出会ったのは多分1983年(16歳の年)で、その前年(1982年)に出版された『「雨の木」を聴く女たち』(大江健三郎)、『千年の愉楽』(中上健次)、『羊をめぐる冒険』(村上春樹)を読んで、妙な言い方だが、今まで自分が知っていた世界とは全く異なるこんな世界がこの世界にはあるのか、と衝撃を受けた。だから最初に読んだ村上春樹は『羊をめぐる冒険』だったはずで、そしておそらく、その次に読んだ村上春樹は『中国行きのスロウ・ボート』という短編集で、ぼくは当時、この短編集から(『羊をめぐる冒険』以上の)強い印象を受けた。今もなお、村上春樹といえばこの短編集の印象が最も強く、特に「午後の最後の芝生」と「土の中の彼女の小さな犬」という短編からとても「強い印象を受けた」という記憶がまず最初にくる。

とはいえこれは、当時「強い印象を受けた」ということを憶えているということで、その印象の「内容」については、もう朧げもいいところだ。なので、これを今読んだらどう思うだろうかということが気になっていて、今年の三月にも、この短編集が収録されている『村上春樹全作品1979-1989』という本を図書館で借りたのだが、自作解説のような部分で、「若い頃の自分はかなり頑張っていると思うが、至らないと思うところがあったので書き直した部分がある」というようなことが書かれていて、ぼくにとっては16歳か17歳のときに読んだ、そのままのものを今どう感じるかが問題なので、書き直されてしまっていたら意味がないと思い、そのまま返却した(3月25日の日記参照)。83年に出版された版を古本として買おうかとも思ったが、そこまでするには至らなかった。で、他の本を探して本棚をひっくり返しているときに、86年に中公文庫として出た版の本が出てきた。

「午後の最後の芝生」と「土の中の彼女の小さな犬」を読み返してみた。「午後の最後の芝生」の最初の方などは、今読むとまるで「村上春樹のパロディ」みたいに見えてしまう文章で、本当に「やれやれ」と書くのだなあと、ちょっと笑ってしまったのだが、十代の自分が何に対して反応していたのかは、なんとなくわかるように思った。

今のぼくにはどちらも、装飾過多でまどろっこしいように感じられてしまうのだが、ぼくがまどろっこしいと感じるところで、作品の雰囲気というか、トーンを作っているとも言える。まどろっこしく遠回りした末に、終盤になってようやく核心部分に触れるのだが、その核心部分については、今でもなお感じるものがあった。どちらも、恋人と別れたか、破局の危機にあって、通常とは違う不安定に揺らいだ感覚の中にいる人物(男性)が、自分の問題以上に、より深く深刻な闇や傷を持っていると思われる他者と偶然すれ違い、その闇や傷の「深さ」の一段面にふっと触れるという話だと言えると思う。その他者とはすれ違うだけで持続的な関係を作るわけでもないし、闇や傷の具体像が深く掘られるわけではないが、その闇や傷の「深さ」の立ち上げ方が鮮やかで、この「深さのイリュージョン」を形作る細部の鮮やかさに、当時のぼくはやられたのだと思う。そしてそれは、今読んでも鮮やかだと思った。

「午後の最後の芝生」では、三十代半ばの主人公が、十四、五年前の十九歳の頃のことを思い出している。その頃の自分は《一年にぜんぶで二週間くらい》しか会えない恋人がいて、そして別れたばかりだった。いや、「一年に二週間しか会えない恋人」ってどういうこと ? と疑問に思うが、この点については何も説明されない(この辺りの事情については後の「蛍」や『ノルウェイの森』で書かれるだろう)。別れた恋人は手紙でその理由について、《十九というのは、とても嫌なの年齢です。あと何年かたったらもっとうまく説明できるかもしれない。でも何年かたったあとでは、たぶん説明する必要もなくなってしまうんでしょうね》と、書いてくる。おそらく、少なくとも日本語において、このような表現を発明したのが村上春樹なのではないか。表現を発明することで、そこで生まれる「感情」も生まれる。

主人公は、彼女との旅行の資金のために、庭の芝生を刈るというキツいバイトをしている。だがもうその必要がなくなったからバイトを止める、その最後の仕事での出来事がこの小説の核心だ。その家は《読売ランドのちかく》にあると、けっこう具体的に書かれる。依頼主である五十歳前後にみえる女性に、その仕事ぶりから信頼と好意を持たれた主人公は、家に上げられ、おそらく、亡くなった後に長くそのままにされてあるのであろう娘の部屋に通され、この部屋の主がどんな人物だと思うかと尋ねられる。

(追記。娘の部屋の机の上には《一ヶ月分くらいのほこり》があったと書かれているし、《カレンダーも六月のものだった》と書かれているので、「亡くなったあと長くそのままにされてある」のではなく、娘の死は、まだ生々しい、一ヶ月くらい前の出来事だと考えた方がいいだろう。)

この後の「蛍」や『ノルウェイの森』を読んでいるならば、別れた恋人と、この部屋の主とが重ね合わされ、別れた恋人に死の予感がまとわりつくとも読めるが(実際、主人公は、部屋の主のイメージを語る時、別れた恋人と混同する)、しかしこの短編だけを単独で読めば、ここでフォーカスされているのは不在の娘ではなく、不在の娘の部屋を抱え込んだまま生活している「五十歳前後の女性」の方だろう。五十歳前後は、若くはないが先が短いというわけではない。広い庭を持つ大きな家におそらく一人で住み、亡くなった夫がそうしていたからという理由で常に庭の芝生を綺麗な状態にキープし、不在の娘の部屋もそのままの状態にしていて、昼間からアルコールを飲みつづけているが、それでも(ちょっとした息の乱れ以外は)乱れることもなく平静であり、家の中も乱れておらず、サンドイッチを上手に作る、この女性の存在が、前半に書かれた主人公の諸事情を覆い隠してしまうくらいに強く前に出てくる。

ここではこの女性の物語は具体的に語られないし、バイトを辞めた主人公はこの女性と二度と会うことはなく、深い関わりができるのでもない。ただ、一瞬のすれ違い(を、具体的にどのように描出するのか)によって立ち上がる「深さのイリュージョン」の鮮やかさや強さが、作品の「内実」となる。このような小説のあり方に、十代のぼくは魅せられたのだろう。

「土の中の彼女の小さな犬」では、明確には記されていないが、この時期の作家自身と同年代(三十代半ば)の主人公が、時代から取り残されたような、古めかしく、客も年寄りばかりであるようなホテルで、《若い女》とすれ違う。主人公は眼鏡を壊してしまっており、視覚がややはっきりせず、「さっきの印象よりは若くないかもしれない」などと意識的に年齢に幅を持たせられているが、主人公よりは「若い女」であることは間違いないだろう。主人公は、恋人との仲が破綻しかねない危機にあり、恋人と合流する予定だったホテルに一人で滞在している。恋人との喧嘩は「二人の関係の行き詰まり」という以外に具体的な原因が見当たらないが故により深刻で、主人公が何度電話をかけても恋人は出ない。滞在初日から雨が降り続き、普段なら好ましく感じるホテルの古めかしさも陰鬱さを上塗りさせる。そんな中、ホテルのレストランに《どことなく人を使い慣れたしゃべり方》をする、育ちの良さそうな若い女が現れる。ホテルの図書館で再度出くわして、主人公と若い女の距離が近づくに従って、ここでも、描かれることの焦点が「主人公の事情」から「若い女の存在(事情)」へと移行しいく。図書館には古めかしい本ばかりで読むものがないと嘆く女に、主人公は持参持した推理小説を渡す。

主人公はその時戯れに、「あなたの境遇を観察して当てる」というゲームを若い女に提案し、女は承諾する。主人公は、彼女がピアニストであることや、広い庭のある家にかつて住んでいて、その庭に思い出があることなどを(半ば観察で、半ば偶然に)当てていく。女はゲームに引き込まれ、徐々に主人公に好意的な興味を持つが、主人公が最後に、あなたはなぜいつも「右手」を眺めるのかと質問したことで空気が凍りつき、主人公は、自分が聞いてはいけないことを聞いてしまったと知る。

のちに、若い女から主人公に夜の散歩へ誘いがあり、そこで女は、八歳の時から八年間大事に飼っていたマルチーズの話をする。八年間そのマルチーズと共に過ごし、自分の膝の上で死を看取り、死後硬直するまで膝に置いたという。遺体は、大切なセーターに包み、思い出の品の数々と共に木箱に入れて庭の隅に埋めた。その時に、それまでずっと貯めていたお小遣い三万円が記帳された預金通帳も一緒に埋めたという。そして十七歳になり、彼女は、学校の友人から親の経済的な危機を打ち明けられ、学校を辞めなければならないかもしれないと言われる。その時、埋めた通帳のことを思い出し、少しでも足しになればと掘り起こす決意をする。掘り起こしそれ自体は《郵便受けまで行って新聞をとって戻ってくる》かのようにできたが、その通帳には《匂い》が染み込んでいて、手で持つとその匂いが手に染み込んできて、今でもなお、自分の右手からはその「匂い」がするのだ、と。

ここでは、「午後の最後の芝生」とは異なり、「右手の匂い」という「深さのイリュージョン」を持つオブジェクトが、それ自身(その「深さ」)としてだけ提示されるのではなく、その背後にある物語(マルチーズとの日々と通帳の掘り起こし)によって因果的に説明される。だからこの「深さのイリュージョン」は、小説として説明的、技巧的である分、「午後の最後の芝生」よりもまどろっこしく、弱いと感じる。

この小説で重要なのは、(1)主人公と若い女とのあくまで「偶発的な出会い」があり、(2)その出会いによって、若い女の口から通帳を掘り起こした(右手の匂い)というエピソードが語られる、という二点であって、それ以外は装飾的な細部であろう。だがここで、(2)の、若い女のエピソードだけがあればいいというわけではないことも重要だと思われる。「午後の最後の芝生」において、五十歳前後の女の孤独な生活の質感は、彼女が「主人公の働きぶり」によって何かしら心を動かされたことによって開示された(表現形を得た)のと同様に、潜在的な次元にとどまっていた若い女の「右手を見る仕草」は、恋人との間に問題を抱えて行き詰まっている主人公自身の揺らぎと出会い、その揺らぎに影響される形で表に出てきた(「右手の匂い」という表現形を得た)という相互作用的な側面がある。この部分は「技巧」には還元できないと思われる。