08/01/18

●散歩をしていて、いきなり、何もない芝生のひろがりに出くわして、どこかの大学のグランドかなにかだろうかと思ったのだが、その隅に数頭の羊とヤギがいるのをみつけた。動物を放牧する場所のようだった。住んでいるアパートから、まっすぐ歩けばせいぜい二十分くらいのところなのだが、こんな近くにこんな場所があるなんて今まで知らなかった。大きな木々で隠れて見えなかったところに、地面をえぐったように下ってゆく坂道があって、そこを下ってゆくと、四、五十頭の牛が並んで草を食べている大きな牛舎があった。
牛は、歩いている道からを柵を隔ててすぐそこにいて、ぼくの気配を察して顔を向けた牛の顔が、手が届くほどの距離にあった。うわっ、牛ってやっぱでかいなあ、と思って見ていると、一番近くにいるその牛の肛門から、糞が、ぼたぼたっと落ちた。牛の糞は、食べている藁がほとんどそのまま出てきている感じで、匂いもあまり強くない。こいつら、食うのも出すのも一緒なんだなあ、と、その、あまりに自然なというか、そのまんまな排便にちょっと感動した。うんこするのにしゃがみもしねえよ、みたいな。犬や猫なら、もうちっょと(人間に近いような)排便という感じがするのだが、牛のはほんとに無造作で、ただ、食べたものが身体を通過する間に多少醗酵されて、そのまま出て来て落下するだけっていう感じで、でもこの感じは、本来(人間のように過剰に意味づけされていない)動物にとって排便というのはこういうものなのか、それとも、肉や牛乳を生産するために生まれては死んでゆくという風に、家畜化されたことで、食うのも出すのも自動化されて、無気力になった、みたいなものなのか、どっちなのだろうと思った。
別に排便に限らず、牛の存在のあまりにも「そのまんま」な感じは、人間が人間のためにつくりあげた街の中を歩いている時に、ふいに出くわすと、ちょっとしたショックを感じる。その大きさや、息づく感じは、まさに生き物の生々しさで、意識とか自己イメージみたいなものに制御されてなくて、擬人化したりキャラ化して捉えることが出来ないような、生き物の生々しさ「だだ洩れ」みたいな。(野良猫などを見ていると、身体が「運動」そのものとなっているかのように見えるのだが、牛舎の牛は、身体が、ただ「存在」そのものに同化してしまっているかのようだ。)
あと、羊って、すごい変な顔してるなあと、しげしげ眺めてしまった。絶妙のバランスの外し方をしている。羊は、白くて長い毛をもっているので、ヤギや牛に比べて「汚れ」が目立って、きたならしい感じで、より「獣感」が生々しい。村上春樹の「羊男」のことを、ちらっと連想した。
●獣感と言えば、イタリアに行った時、スーパーでイノシシのサラミというのを買って来て、ホテルの部屋で食べた。口に入れる前は、すごく強い獣の匂いがして抵抗があるのだけど、口に入れてしまうとメチャクチャ美味しくて、日本で普通に売っているサラミよりも随分と太くて大きいその一本を、ワインと一緒にまるまるぺろっと食べてしまった。その翌日は一日中、自分の体からそのサラミと同じ獣の臭いがたっているのをずっと感じていた。ああ、自分も動物なんだなあと、思ったのだった。