●『論理と感性は相反しない』。山崎ナオコーラの小説は、読んでいる間ずっと緊張させられる。出来る事なら、そこら辺はなんとなく曖昧にして済ませておきたいと思っているようなことを、どかっと胸元あたりに突きつけられている感じだ。とはいえ、小説自体は隅々まで工夫がこらされた楽しいもので、実際、小説を読んでいてこんなに何度も吹き出して笑ってしまうということは、そんなにあることではない。にもかかわらず、読んでいるこちら側が勝手に緊張してしまうのは、それがこちら側の「うしろめたい(恥ずかしい)」場所に触れて来るからなのだが、しかし小説は読者に対して何かを問いつめて来るような調子で書かれているわけではなく、おそらく作家も読者を緊張させようと意図しているわけでもなく、作品が、自分自身を追いつめてゆく時の、その生真面目なあり様が、自然と反射して、結果として読者に緊張を強いることになるのではないだろうか。
この小説では、人と人との関係がかなり生々しく描かれていると思うのだが、その生々しさは、ほとんどあからさまに矢野マユミズ=山崎ナオコーラと読めてしまうような(擬似的?)私小説のような体裁で書かれているから、ということとは違うように感じる。サラリーマンのボルヘスが秋葉原を歩いたり、埼玉の上空に巨大な傘が出現したりする話がある一方で、素朴に読めば、大阪に住む現代音楽家の男性や、デビューしてはじめて担当になった編集者との関係の話は、ほぼそのまま事実が赤裸裸に語られているかのようにも読めてしまうのだが、そのような「作家が自らの秘密を告白する」的な生々しさが作品のキモなのだとしたら、読んでいる側までもがこんなに緊張させられることはないはずだろう。
ここで、語られる出来事を普通に実話のように感じさせるのは、矢野マユミズ=山崎ナオコーラであるかのような小説の構え(企み)によってではなく(これあある意味かなり素朴なミエミエの企みでしかないのだ)、むしろディテールの秀逸さによってであるように思う。例えば、「プライベート」で、現代音楽家=松本が、矢野に送ってきたメールに唐突に内田樹が引用されている(ここで吹き出した、それが内田樹であることの微妙さ)とか、あるいは、松本との関係が再び語り直される「蜘蛛がお酒に」で、松本とはじめて会った飲み会の場面の、他の二人の男性も含めた、描写と会話の巧みさとかによって、あたかも実話であるかのようなリアルさが生まれている。それは実話である(っぽいことが匂わされる)ことによるリアルさではなく、巧みな描写というものが生み出すリアルさなのだと思う。「プライベート」で、松本が自分の曲を聞いてもらうことに恥ずかしさを感じる場面や、二人が別れる(もう会わない)ことを決める会話の流れなどは、事実によって保証される(現実に似ている)ことのリアルさではなく、描かれることではじめて浮上し生み出されるもののように感じられた。(例えそれが事実をもとにしていたとしても。)
あと、ここでは固有名の使い方が面白くて、松本とはじめて一緒に観劇したのが駒場での平田オリザの『東京ノート』だとはっきり特定されている(「蜘蛛がお酒に」)。つまり、将来、山崎ナオコーラの研究者が、松本のモデルを特定すべく、作家が誰と『東京ノート』を観たの調べることさえ不可能ではないかもしれない。しかしそのことによって、逆に、フィクションと現実を結びつけるかのような固有名こそが実はいくらでも交換可能なもので、そこに別の何かを当てはめても成り立つので、別のものを観た可能性もある、という感触も浮上し、事実とフィクションの結び目は固有名によって却って危うくなる。つまり、フィクションであることのリアルさは、実際に現実に繋がっていることによっては保証されない。
あるいは、矢野マユミズと神田川歩美とは、別の人物だと言えるのだろうか。神田川は、作家にならなかったかもしれない(あるいは、作家になる前の)矢野だと言えるのではないか。つまり、矢野は神田川でもあり得、神田川は矢野でもあり得た。(矢野と神田川は同一の潜在的人物の二つの可能性であるからこそパスポートは一つであり、同時に二人で出国できない。そして作家にならなかった矢野である神田川のアンチポデスは、サラリーマンであるボルヘスだ。)さらに、「恐怖の脅迫状」は妙に好きな作品なのだが、ここでの少年松本が、現代音楽家松本と、同じ松本であるということはどの程度意味をもつのか。名字が同じだけで同一人物と断定することは出来ないが、小説である以上、名前が同じであることは何かしらの徴として作用する。(それは、神田川と、子供をつくらなかったカンダガワとの関係にも言える。しかし、では、「プライベート」の矢野、松本と、「蜘蛛がお酒に」の矢野、松本が同一人物なのかもわからない、などと、と言い出せばきりがない。)そして、神田川の同棲相手である真野と松本とも、どこか似たところがある。真野も松本と同様に、妙に堅い言葉遣いをする。松本が「ひっきょう」とか「よしんば」などを日常会話に使うのと同様、真野もまた「敷衍してゆくと」などと言う(真野の本棚には、レヴィ=ストロースや内田樹はないみたいだけど)。そしてさらに、作家にならなかったかもしれない(あるいはなる前の)矢野が神田川であるとすれば、少女時代の矢野-神田川が蒲生亜希だとみることも出来る。だとすれば矢野は少女時代に既に、少年時代の松本とあり得ない出会いをしているということになるし、作家にならなかった矢野である神田川は、松本と似たところのある真野と同棲して別れる。ここではそれぞれの固有名は潜在的な可能性が顕在化した表現体のようなものであり、だから例えば、松本という人物のモデルが実在したかどうかなどということは、小説のリアルさのなかではどうでもいいこととなる。重要なのは、それぞれ一つのもののことなる可能性であるような人物たちがもつ、それぞれ異なるはずの関係が、どこか似たような感触をもってしまうということから見えて来る、この作家にとっての「運命」であるかのような、ある「関係の感触」なのだと思われる。それは矢野と松本との関係の感触としてあり、しかし既に神田川と真野として、蒲生と少年松本として、潜在的にあったものの、反復であるかのようだ(さらにそれは、編集者Aとの関係としても変奏される)。
この小説の最大の魅力は、周到に企まれた様々な表現上での工夫であるよりも、すぐれたディテールや描写の方にあるように思われ、そのような部分にこそこの作家の資質の最良の部分があるように思う。(勿論、工夫の部分も楽しく、例えば中盤に挟まれた架空のバンドの話などはかなり笑える。)そしてそのディテールや描写は、あくまで関係の感触を浮かび上がらせるために創出されたもののように思われる。ぼくがこの小説集で一番好きなのは冒頭の「論理と感性は相反しない」なのだが、一見、男性=論理、女性=感性といった安易な図式に納まるのかと思いきやそんなことはなく、一つ一つのディテールが、テンポよく、新鮮さを失わない意外さをもって展開し、そしてそれを語る話者の登場人物との絶妙な距離感もあって、最後まで生き生きと冴えた感覚(と摩擦と)が持続する。そして「論理と...」の、ぽんぽんと場面がとんでゆくような書き方とはことなり、じっくりと丁寧に描写と会話が展開される「アパートにさわれない」や「蜘蛛がお酒に」を読むと、この作家の才能の幅も感じる。(でも、最後の「蜘蛛の話」は、ちょっと決めにいきすぎだと思うけど。)
しかし本当に重要なのはそこではないかもしれない。ぼくはここまで書いてきても《出来る事なら、そこら辺は、なんとなく曖昧にして済ませておきたいと思っているようなこと》については、つまり生々しさの中心については、全然触れられていない。かろうじて「関係の感触」という言い方でほのめかして逃げている。そこを避けるためにこそ、長々書いてきたようですらある。そもそも、そこに簡単に触れられるくらいならば、ぼくはこの小説(と『長い終わりが始まる』)を読んでこんなに緊張することもないのだ。この緊張は、作品に対してもつようなものというよりも、人物に対してもつようなものに近いのかもしれないのだが。