●「文藝賞」を受賞した「おらおらでひとりいぐも」(若竹千佐子)がとても面白かったので、文藝賞の受賞パーティーに行ってみたのだけど、審査員の一人である保坂さんが欠席ということで、「文藝」の編集者以外に誰一人として知っている人がいなくて(ぼくが一方的に知っている有名人はいたけど)、料理を少しいただいただけでさっさと帰ってきてしまったが、しかし、受賞作家の素晴らしいスピーチが聞けたので行ってよかった。
●「おらおらでひとりいぐも」は、20世紀の前衛少説があっての、21世紀の小説だと思った。フォークナーとか、ベケットとか、シモンとか、ウルフとかがあって、その先にはじめてあり得る小説。でも、20世紀の前衛小説と決定的に違うのは、とても読みやすく、分かりやすいといところだろう。標準語と東北弁が入り混じり、三人称と一人称とが入り混じり、一人の人物の内省のなかに何人もの異なる人の姿や声が入り混じっているという、形式的にはとてもややこしい書き方(そして、ただそのようなややこしい書き方の小説であるというだけならば、二十世紀に既にいくつもあるのだ)がしてあるのに、おそらく小説をあまり読まない人でもすんなり読めるだろうと思えるし、あるいは、人によっては文芸誌に載るような小説としては素朴過ぎると感じる人さえいるのではないかという風に書かれている、というのが不思議なのだ。
おそらく、19世紀にはこういう小説は書けなかったし、20世紀にこれをやろうとすると、ひどく難しくて読みにくいものになるしかなかった。でも、現在ならば(わざわざややこしい書き方をしなければ表現できない)「この感じ」を、ややこしく、かつ、誰でもが読めるような形で書けるのだなあ、と。たぶん、形式的に分析してみるとかなりややこしいことになっていると思われる小説が、すらすらと難なく読める。おそらくこれは、「小説」という形式の「歴史的な持続」のなかであらわれた、「小説という器」そのものの変化(「進化」というと進歩史観のようになってしまうので、あえて「変化」とする)のあらわれの一つなのだろうと思った。
個々の作家や作品をこえた「小説の歴史的持続」というものがあるのだなあ、と感じ、こういう「感じ」の小説が、ある種の(社会派的な)俗っぽさにぎりぎりまで接近しながらも、薄皮一枚でそこに陥ることなく、随所に機敏な運動をみせて翻りつつ、そして、こんなにも読みやすく書けてしまうのか、という驚き。
このように書くと、これを書いた若竹千佐子という作家が、20世紀の前衛小説を踏まえ、研究(勉強)した上で、意識的にこのような小説を書いたのだという風にとる人もいると思うけど、別にそういうことではないと思う。これは作家個人の意識や勉強という問題(だけ)ではないと思う。小説という媒体の歴史が、たまたま、ある作家の人生、ある作家の実感、ある作家の実践の上に重なり、そこから突出し、それがこのような形で顕在化されたということだと思う。それは別に、何も考えないで直観的にたまたま書けちゃったのではないかという意味でもない(実際、かなり理屈っぽい小説だ)。ある作家の生きることや書くことが、小説という媒体の歴史とリンクしてしまうという出来事は、意識的だとか、意識的じゃないとか、そういうことでなんとかなるような問題ではない、ということが言いたい。当然、意識的ではあるだろうし、しかし、意識的だから出来るということでもない、ということ。
●「おらおらでひとりいぐも」は、63歳の作家が、75歳の登場人物を描いた小説で、自分の未来を振り返るような小説なのだが、つまりこの作家は63歳でデビューする。しかし、今の感覚だと、63歳で小説家デビューというのは、別にそんなに遅いという感じはしないのではないか(あと、違和感として、主人公は75歳としてはちょっと老け過ぎている気もする、まあこれも、人によるのだけど)。たとえ60台半ばで小説家になったとして、80歳まで書くとしたら、15年以上は書ける。そして、一人の作家が、充実した仕事を十年以上つづけられたとしたら、それはもう充分に立派な作家だと言えると思う。だから、まあ、早いとは決して言えないとしても、別に特別に遅いという感じもしない。磯崎さんが2007年にデビューした時は42歳だったと思うけど、2007年に42歳でデビューすることと、2017年に63歳でデビューすることは、「デビューの遅さ」として感覚的にそんなに変わらない感じではないか。まあ、それくらい日本全体が年寄りばかりになったということもあるけど。
でも、それは別に、作家が年寄ばかりになるということでもないと思う。今みたいな、頭さえよければネット経由でいくらでも勉強できるし限りなく情報も得られるような時代ならば、十代前半くらいでものすごい小説を書く人も現れるかもしれない。それは別に「若い、新しい感覚」という紋切り型が「売り」のものではなくて、ノーベル賞級の科学論文を十代で書いてしまうというような感じで、すごい小説を書く人が出るかもしれない(個人的に、最近の二十代の人の頭の良さにびっくりすることが、ぼくは多い)。
つまり、一人の人の一生が、どのような形であるのか、どのように成熟し、また、どのようにいつまでも成熟せず、どのように老いていき、また、どのようにいつまでも老いないのか、どのような時期にわりと平安に過ごせ、どのような時期に波乱が起るのか、そしてそもそも、どの程度に長く生きるのか、それはまったく一人一人で異なっていて、だから、そのどの段階で「何かをつくる」ことができるようになるのか、その標準的、平均的な姿を想定することは、今後ますますできなくなっていく(というか、意味がなくなっていく)ということではないだろうか。世代論や○○年代論のような粗い考えは、今後ますます意味をなさなくなっていくのではないか。「おらおらでひとりいぐも」という小説とその作家の存在は、そういうことの現われの一つでもあるようにも思った。