武蔵小山で『映画空間400選』の打ち上げがあった。地震の後、こんなに人が集まっている場所に行ったのははじめて。帰りに乗り換えで降りた新宿駅のホームが暗くて、一瞬、間違って別の駅で降りてしまったのかと思った。
角田光代の九十年代の作品をいくつか読んだ(『幸福な遊戯』『夜かかる虹』『真昼の花』『カップリング・ノー・チューニング』)。ちょっと前に読んだもの(『対岸の彼女』『ひそやかな花園』『まどろむ夜のUFO』)も含め、一番好きだと思われた作品は『カップリング・ノー・チューニング』だった。
ずっと先まで延びる一本の道をすーっと車ではしってゆくように最後までスムースに運ばれるシンプルな感じで、しかもそれでいて単調でも単純でもない。他の作品でも繰り返し問題となるような事柄が書かれているが、若い男性の一人称によって、他にはない、素直で伸びのある感じ、のびやかさのようなものが生まれているように思った。ひっかかりなく最後まで一気に読み進められてしまうような小説の多くは物足りなさを感じるものだけど、この小説はその点(まっすぐぐさ、軽さ、ひっかかりのなさ)こそがよいのだと思った。なんかすごく青春だなー、という感じ(若い時に特有の楽しさと空虚さ)もいい。きっとこの感じは「若くして書ける作家」じゃないと書けないのだろうと思う(九十七年に発表されたものだからおそらく作家が二十九歳から三十歳くらいに書かれたもので、きっとそれが「この感じ」を出すのに年齢的な「ぎりぎり」なのではないかと思った)。よくあるようでいて、ここまでのものはなかなかないという感じ。
一見、似ているようにみえるが、似ているからこそ(ある種の同時代的な感性の共有があるからこそ)なおさら、二人の作家の根本的な違いがくっきり際立ってみえるという意味で、「次の町まで、きみはどんな歌をうたうの?」(柴崎友香)と読み比べてみるのも面白いんじゃないかと思った。
他に面白いと思ったのは「まどろむ夜のUFO」「もう一つの扉」「草の巣」「地上八階の海」。「草の巣」は『カップリング…』と同じ年に発表された小説で、この二作はちょうど裏表のような関係になっていて、それも興味深い。
ぼくが読んだ限りでは、この作家の小説はほぼすべて一つの作品の別バージョンのような感じに思われた(ベタな言い方だがデビュー作を延々と書き直しているかのように)。題材とか技法とかはむしろ多岐に渡っているとさえ言えるのだけど、そこで問題となっていることはいつもほぼ同じことであるように感じられる。あるいは、書かれていることはそれぞれ違っていても、それを書かせているものは共通しているようにみえる(そのことは3/19の日記にも書いた)。作風、題材、技法という次元では融通性が高いのだが、それとは別の次元で不思議な執拗さが作動している感じ。この執拗さのあらわれ方がぼくには面白かった。それはある意味では貧しさとも言えるのだろうが、長く書き続ける作家というのは、きっとそういうものを(それぞれに異なる様々な形で)持っているのだろうと思った。
描写が丁寧になされるのだが、にもかかわらず描かれているものの空間的な関係性がよく分からない書き方になっている、というのも不思議な感じ。例えば、「部屋」がほとんどの作品で重要な要素となるのに、その間取りや具体的なイメージが具体的には思い描けないように書かれている。あるいは、印象や感触は丁寧に拾われるのだが、その印象が具体的に何に因るのかはほとんど書かれない(例えば「ギャングの夜」の主人公の部屋選びへの異様なこだわりには、細部の具体性へのこだわりという根拠がほぼ感じられない、つまり根拠は具体性とは別の次元にある)。具体性と抽象性のバランスが不思議で、おそらくこのことと、(技法や題材の)融通性と(広い意味での主題の)執拗さとの関係とはつながっていると思われた。