●『淡島百景』(志村貴子)1巻を読んだ。『放浪息子』も『青い花』も読んでいないのだけど、この人すごい作家だなあと思った。長く持続する伝統ある場所(この作品の場合は歌劇学校)を舞台にして、符牒となる出来事によって幾つもの時間が響き合うような話、というのはわりとよくあるとも言えるのだけど、それにしてもこの作品の時間処理の自在さはすごい。
特にこの本の白眉と言える三話の時間の行き来の超絶技巧的な自在さ。結局「岡部絵美」に何があったかというのは分からないのだけど、そこを具体的に描かないことで「もったいぶった」感じにはまったくなっていない。そこに具体性がないことで、岡部絵美が岡部絵美であると同時に、(長い歴史のある学校のなかで)他の誰かでもあり得るという感じになっている。
中心となるエピソードが語られなくて、しかも、時間も場面も、順番が関係なくポンポン飛んでゆくので、散漫な印象になってしまってもおかしくないのに、まさにそのような語り方によってしか実現できないであろう余韻を生んでいる。
そして、三話を受けての四話の重さ。三話を読んだ後で、あの「伊吹桂子」のその後を描くのか、と。その苛烈さと重さ。伊吹桂子をたんに「嫌な奴」で終わらせてあげない作者は、何と厳しい人なのだろうか。《いい加減自分の人生から降りてしまいたいと思う》と語らせた後に、「いやいや、決して降りられないからね」と追い打ちをかけるように《私を恐れながらも慕う生徒に甘えてはならない》という語りで締めくくるこの厳しい重さ。胃にずっしりくる。
この、三話と四話があることで、割合とサラッと軽く流している感じの一話、二話に大きなパースペクティブが与えられ、軽くあり得ることの貴重さと、軽さの裏にある重さが意識される。「この場所」では、一話や二話のような物語が何度も何度も生起し、あるものは軽やかに流れゆき、あるものはずっしりと重い(取り返しのつかない)影響をその後の生に残すだろう、と。
現在があって、その根拠として回想(過去)があるというのではなく、複数の時間が同時進行するというのでもなく、様々な「別の時間」に置かれた切片が、読者の「読むという持続」によって関係づけられてネットワーク化されることで、四次元的な感興と言うべきものが浮かび上がってくる。
そして、四話まで読み終わった時のずしんとくる重さに対して、生クリームのようにふわっと軽く甘口の、調子の異なる(演じる側から観客へ、女性から男性への視点の移動がある)五話があって、本が閉じられる。
何という洗練された語りなのか、と。そして、たんに技法として洗練されているというのではない、人間の感情や関係についての深い洞察がある。(『響け!ユーフォニアム』を観たときも思ったのだけど)こういう、微妙な人間関係の話は、ぼくなどには百回生まれ変わっても書けないだろうなあと思う。