●『獣になれない私たち』、第三話、第四話をU-NEXTで。演出がキレキレだった一話、二話に比べ三話はやや弛緩している感じだったけど、四話はまたキレキレだった。
このドラマは、抽象的なレベルでの構造的な形がうつくしいのだと思う。それは、脚本のレベルでも、演出のレベルでもそうなのだと思う。ある関係のなかで生じた出来事が、別の関係のなかでも反復的に生じるのだけど、図としての出来事が相似していても、それが起こる地としての関係や来歴が異なることによって、同じような形の図が違った運動を引き起こし、別の形への展開を導き出す。そのようにして別の形へと分岐したかに見える出来事(展開の複数性)が、ふとしたところで、また同型的な響き合いをみせては、また分岐していく。一つの形のさまざまなバリエーションがいろんな場所に見いだされるのだけど、それらは同型でありながらも、それぞれで異なった響きをみせるように配置されているというのか。
(観ていて、ああ、伏線の張り方がうつくしいなあ、とか思う。伏線というより、ある形態の出来事があると、それと同型もしくは対称形の出来事が、別の人物、別の文脈の上に、別のスケールで反復的、対抗的に現れ、その反復、対抗が伏線のように機能する。脚本のレベルでは、これが出来事や人間関係というスケールで現れるのだけど、演出のレベルでは、それがさらに様々な細部のレベルでもフラクタル的にあらわれている。)
そのような、抽象的、あるいは幾何学的なレベルでの複雑さやうつくしさ(同形のエピソードが、様々な異なる文脈上に反復的に配置されていること)と、意味的、批評的なレベルでの主題とがうまく絡んでいるところがこのドラマの面白いところだと思う。というか、抽象的なレベルでの形の美しさや運動の複雑さがあるからこそ、細部にまで配慮の行き届いた作り込みが、たんに丁寧な仕事だというだけではない、いきいきした意味やリズムとして立ち上がってくるのだと思う。
●そうはいっても、逆からみれば、抽象的な形の美しさは、細部にまで行き届いた配慮によって支えられているとも言えるわけで、その意味で「既存の制度」のもつ豊かさというのも強く感じる。たとえば、オフィスにいてただフレームの隅に写っているだけで、役名もセリフのないような人たちに、きちんと「そこにそのようにしている人」であるような十分に配慮された配置を行うために、どれだけの手間とお金がかかっているのかと考えると、ゴールデンタイムに地上波の全国ネットで放送されるドラマだからこそ成り立つ(人材的、資金的な)豊かさがあるという感じがする。
一話、二話、四話を演出した水田伸生という人についてウィキペディアで調べてみると、1981年に入社してからずっと日本テレビでテレビドラマにかかわってきた人で、このキレキレの演出もまた、既存の制度のなかでの(既存の制度によって可能になる)蓄積によって生まれたものなのだなあと思う。
●すばらしいなあと思いながらも、やはりまだまだテレビは強いんだな、この面白さや豊かさはテレビという既得権の上に成り立っているのだな、という、軽いひっかかりのようなものを感じたりしながら観ている。