●『獣になれない私たち』は、一話から七話までを三回ずつ繰り返して観たのだけど、最初に観る時は脚本の構造の幾何学的なきれいさが際だってみえていたのが、繰り返してみると演出の充実が前に出てくる。ワンカットワンカットが相当に作り込まれているのと、複数のカットが重なって厚い層をつくる感じと、あるカットがそれと遠くにある別のカットたちと緊密なネットワーク的な関係をつくっていることとかが見えてきて、その複雑な作り込みに改めてうーんとうならされる。
(何話だったか思い出せないが、新垣結衣がバスに乗っているカットがあって---新垣結衣がバスに乗っている場面は複数回あり、バスに乗る時の新垣結衣はいつも軽い放心状態にあり、それが「複数回反復される」ということ自体もこのドラマではとても重要なのだが---そこでは新垣結衣が構図の中心から外されていて、構図の中心には新垣結衣と近い年齢の、似た色の服を着たエキストラの女性が据えられていて、そのドッペルゲンガー的な気配がとても不気味で際立っていたのだが、このカットの、新垣結衣から新垣結衣が解離していくような表現に、このドラマにおける相似形の反復によるパースペクティブの相互交換の重要性がはっきりと---意識的に---刻印されているように感じた。背筋が寒くなるくらいかっこいいカットだ。)
音楽だと、たとえば録音したボーカルのちょっとした音程やリズムのずれを後から細かく修正したりもすると思うのだが、それと同様、俳優の動きのちょっとしたリズムを、再生速度を微妙に調整して変えたりもしている。音の入り方とかをみても、ゴダール並みの細かさで編集しているのではないかと思った。
たとえば、小津の映画を支えている圧倒的な技術は、小津個人の力量とは関係なく、松竹という会社によって蓄積されたものだろう。小津は、松竹という組織のなかでえらくなっていくことで、その蓄積を比較的自由に使える立場になっていったということだろう。しかし、現在の日本映画ではそのような蓄積はなくなっていると思われる。大きな予算の映画であっても、そのつどチームを一からつくる必要があるだろう。だが、たとえば「日本テレビ」には、過去何十年にもわたって、年間何十本という形で常に一定量のドラマをつくりつづけてきたノウハウや技術や人材が、蓄積されたり更新されたりしたものとしてあるだろう。それによって可能になる豊かさというのが、『獣になれない私たち』にはあらわれているのではないか。
野木亜紀子の脚本を少し追ってみようと思って『掟上今日子の備忘録』の第一話をHuluで観たのだけど、これは普通の、まったくイメージ通りの典型的な「日本のテレビドラマ」という作りだった。