●『ビフォア・ミッドナイト』(リチャード・リンクレイター 2013年)をDVDで観た。この映画を、初めて観る映画として観たし、観ている間もずっと、この映画は初めて観ているのだと思って観ていたのだけど、日記を検索してみると、2014年の7月17日に既に一度観ていることが分かった。一度観た映画を、しかもそんなに昔ではなくたかだか四年くらい前に観た映画を、ワンカットも憶えていない---観ている間に既視感を感じることすらない---などということがあるのだろうか。過去の自分は、《これはぼくにはまったくダメだった》と書いているので、ひっかかるところがまるでなかったということなのだろうとは思うけど。過去の自分と今の自分とが同じ自分なのかどうか疑わしくなる。
今の自分も、面白い映画とは思わなかったのだが、『ゴダールの探偵』(1985年)や『汚れた血』(1986年)、『天使の接吻』(1988年)などをリアルタイムで観ているので、ジュリー・デルピー(ほぼ同世代)を見て、八十年代からずいぶんと時間が過ぎたのだなあということにしみじみはした(既に五年前の映画ではあるが)。
そもそもこの映画は、『恋人までの距離(Before Sunrise)』(1995年)、『ビフォア・サンセット』(2004年)と、同じカップルの九年ごとの出来事を、実際に九年の間を開けて描く三部作になっていて、つまり過去への参照項として機能するのは『恋人までの距離』や『ビフォア・サンセット』のジュリー・デルピーでなくてはならないはずなのだけど、実際には、記憶の参照はそれよりもずっと印象の強い他の作品に向かってしまうことになる。『恋人までの距離』というフィクション上のイーサン・ホークジュリー・デルピーカップルよりもずっと、八十年代フランス映画のジュリー・デルピーの方が強く刻まれてしまっているので、どうしてもそうなる。
どうしてもそうなってしまうという点で、つまり、作品上の過去と、それを観る人が参照する過去とはどうしても食い違ってしまうので、この映画の意図はあまり上手く実現されていない(というか、一人の俳優が長年仕事をしていれば、意図的にこのような作品をつくらなくても---物語上の時間と俳優の実人生の時間とをわざわざ一致させなくても---同様の効果は自然に生じる)ようにも思われる。
とはいえ重要なのは、現時点から過去へと遡る視点の効果というよりも、『恋人までの距離』がつくられた95年の時点では三部作として構想されていたわけではなく、事後的、偶発的に、次が、そしてさらに次の次が、という風に付け加えられて結果的に三部作になったというところにあるのかもしれない。現在から過去へと遡及する効果が狙われていたのではなく、過去から照らされることによって現在が生じている(過去の作品がプロトタイプとして---事後的---に現在において機能した)というところに意味があるのかもしれない。
ただ、『ビフォア・ミッドナイト』という映画を面白く思えないという事実はどうしようもない。