●全然使ってなかったVHSの再生機を奥の方から引っ張り出してきて、『セリーヌとジュリーは舟でゆく』をすごくひさしぶりに観た(VHSのソフトを持っている)。今見ると、VHSの画質はかなり厳しいものがあるけど(テープ自体の経年劣化もあるかもしれない)、でも、映画はすばらしかった。大雨が去った後の、虫の声と共にこの映画を観る深夜の三時間。
(セリーヌとジュリーは、常に軽い躁状態で、口から出まかせばかり、悪意なくウソをつき、その結果として他人がどうなるのかという配慮もなく、公共物を粗末に扱い、冷静に考えれば正気とは思えないのだけど、それなのに一見すると普通の「女の子」が戯れているような映画にも見えて、なかなか他にないすごいキャラなのではないか。ひたすらアナーキーなのに、「私はアナーキーである」という過激アピールや狂気アピールが全然なくて、「いや、わたしなんて全然普通っすよ」みたいな風情でナチュラルに狂っている。というかあまりに「囚われ」がない。)
(まさに、ノワーズな女たち。)
(例えば、ゴダールにとってのアンナ・カリーナや、トリュフォーにとってのジャンヌ・モローは、ある意味で理想の女性像というか、幻想の対象というか、まあヒロインで、俗ないい方をすれば「監督(男性)が女優に惚れている」的な側面があると思うのだけど、リヴェットの映画に関しては「女優に惚れている」成分をまったく感じない。監督にとって、カメラにとって、女優が欲望の対象ではない、という感じ。しかしそれでも、男性対男性---あるいは女性対女性---の関係とは違う関係が、監督と女優、カメラと女優との間にあるように感じられる。なんというか、ロメールとはまったく相容れない何かがあるという感じ。)
(この映画で、ジュリーがセリーヌの身代わりになってオーディションに出て、上手くいかなくて泣き言をいいはじめ---ジュリーは「館」のなかでも全然上手く演じられない---それがどんどん発展していって、目の前にいるプロモーターたちを激しくディスりはじめる---メガネの奥からこっちを見透かしたように見やがって……、とか言う---のだけど、この場面を観ていて、「映画そのもの」が「映画好きの男性」をディスっているように感じられた。彼女たちと「館の寸劇」との関係は、男性客がセリーヌの舞台を観るやり方とはまったく違っている。)
(リヴェットの映画---特に七十年代から八十年代---の女性像は、男性があこがれる女性でも、女性があこがれる女性でもない感じがする。そのあたりに、リヴェットの映画の「キャッチーじゃない」「ポップにならない」---まあ、ノワーズな---感じがあるのだと思う。とはいえ、七十年代のリヴェットは『セリーヌとジュリー…』しか観てないけど。)
(この映画は74年につくられていて、60年代的な過激さがあらゆる場面で失墜してゆくなかで、その過激さをまったく異なる形に変換して継続するのだという感じがあったのではないかと思った。たとえば『ママと娼婦』---こちらは73年につくられた---と比べた時の「過激さ」あり様の違い。)
(『ママと娼婦』が悪いと言っているのではないです、すごい映画です、念のため。)
VHSのテープは前の引っ越しの時にほとんど捨ててしまったのだけど、まだ多少は捨てきれなかったのが残っているので、これ(VHS再生機)があれば、観られる。『獅子座』(ロメール)とか、『リトアニアへの旅の追憶』(メカス)とか、『カップルズ』(エドワード・ヤン)とか、『そして人生はつづく』(キアロスタミ)とか、良くない画質でなら観られる。