●昨日につづいて、VHSでリヴェットの『嵐が丘』(85年)を観た。おそらく、レナート・ベルタの繊細な撮影を台無しにするかのような画質であろうと思われるが、それでもすばらしかった。『地に堕ちた愛』(84年)と『彼女たちの舞台』(89年)の間に、このような端正な古典小説の翻案を撮るのか、と。
嵐が丘』というと、ヨークシャー地方の荒々しい自然を背景にした、荒々しい人たちのドロドロした話なのだけど、この映画では、(主要な四人は特に)線の細い、育ちの良さそうな、そして幼さの残る感じの俳優が演じている。ヒースクリフ(この映画ではロックと呼ばれている)役の人でさえ、「あどけなさが残る」と形容してもいい感じだ。
だから、後半のドロドロした展開になると特にそうなのだけど、物語のリアルなたちあがりというよりも、それがあくまで「演じられた」ものだという感じが常にある。この映画が『地に堕ちた愛』と『彼女たちの舞台』の間にあるということを考えても、それは意識的なものだと思われる。
映画によってヒースクリフという存在がたちあがるというよりは、ヒースクリフを演じている俳優を撮影する。あるいは、物語を演じているということを撮影する。南フランスに実在する風景や建物を舞台として、俳優が『嵐が丘』という物語を上演している。
ヒースクリフを演じる俳優は、ヒースクリフでもなく、俳優自身でもなく、ヒースクリフを演じる媒介のようなものになっていて、その「媒介」を捉えたいのかなあ、と。
そこで、演技の「(動きとしての)かたち」がとても重要になってくると思う。「かたち」としての演技があり、その「かたち」を可能にする、演技をする俳優の身体があり、その、人体がつくり出す動きの「かたち」に沿うようにして、映画としての空間が開かれてゆく。
舞台となる現実の空間があるからこそ、そこから演技の「かたち」が導かれ、そこで導かれた俳優の演技の「かたち」によって、現実の空間が映画としての空間へと変換されてゆく。そして、映画としての空間は、時間のなかでたちあがってくる。
物語は何度も上演される。上演の度に、舞台を変え、人物を変えて。そして物語は、上演される度に、その都度異なる空間と時間をたちあげる。しかしそれらは皆、『嵐が丘』と名付け得る。そのような映画として観た。
●前に観たときも同じようなことを感じたと、今回観て思い出したのだけど、この映画のラストには、なにかすごく強烈な印象を受ける。なぜか分からないけど、強烈に胸がざわつくラストだ。